AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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リトル・ダンサーのサントラについて

以前、拙ブログでも取り上げた映画「リトルダンサー」のサントラ盤を見つけた。

この映画は80年代の炭坑街を舞台にバレエ・ダンサーを夢見る少年の物語だ。
では、サントラはバレエ音楽のコンピかと言ったらさにあらず。T.REXを中心にクラッシュやらジャムの曲が収録された、思いっきりロックなアルバムなのだ。

この映画を見たときはT.REXの楽曲ばかりに目が行ってしまって気づかなかったのだが、80年代のさびれた街に流れるサウンドトラックがパンクムーブメント下にあるクラッシュとジャムだったのだ。特にジャムのポールウェラーはスタイルとしてはネオ・モッズでポップでお洒落な感じのインスツルメンタルに政治性の強い歌詞をぶつけておるので、なおさらサッチャー政権下のストライキ真っ最中の閉塞感の中の気分にはずっぱまりだったんじゃないかと思う。

そして、T.REXはグラマラスな世界への願望と予感として機能しておるのだ。ずっとT.REXの「コズミック・ダンサー」はビリーくんの心象風景だと思っていたのだが、赤尾美香によるライナーに「マーク・ボランが兄ちゃんの10年前のアイドルだったのかも」という指摘があり納得。考えてみればマーク・ボランは「パンクのゴッド・ファーザー」という評価もあるのだから、クラッシュやらジャムへの系譜として解釈すると決して突拍子もない組み合わせでもない。

このサントラが最高にグーなのは映画では流れないスタイル・カウンシルの「シャウト・トウ・ザ・トップ」「タンブリング・ダウン」が入っているところだ。スタカンといえばポール・ウェラーがジャムの後にミック・タルボットと組んだモロお洒落なサウンドのユニットだ。ここではアシッド・ジャズへ連なる音世界を展開しているわけなのだが、やっぱし歌詞は政治性が強い。この2曲はTVでもよく使用されるので聴いたことあるだろう。特に後者の「タンブリング・ダウン」はこの順番だとヤケに高揚感がある。ビリーくんが踊りまくりながら街を走っていく姿を思い出しながら聴くと、かっちょいいんだか嬉しいんだか何だかわからなくなってこっちが踊りだしたくなるような感覚がある。

映画の方もそうなのだが、ほんのちょっとの希望と夢を抱えて現実を生きていくためのサントラとしてお薦めである。

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味覚のお話
1日あいてしまったが、「レミーのおいしいレストラン」についてである。

ピクサー製作なので安心して観れるのは予想できていたので、「いつ観てもいいや」とほったらかしにしておったので先月のリリースを機にようやく観たわけだ。

過去に観た「トイ・ストーリー1、2」(*1)、「モンスターズ・インク」(*2)、「ファインディング・ニモ」(*3)、「インクレディブルズ」(*4)とどの作品にしてもキャラクター造形や脚本の練り込み具合がすんばらしく、おまけにヲタクノリな作りこみ加減もゼツミョーで「しょせんファミリー向けやろ」という捻くれた観客でも絶賛するしかないのだ。

さて本作、料理の才能のあるネズミのレミーがボンクラのリングイニと協力しながら一流シェフとなる夢をかなえていく話なのだが、たまたま嗅覚をテーマにした「パフューム」を観た直後だっただけに、同様の生理的感覚である味覚をどのように表現するんだろうと思っていた。というのも「パフューム」では臭いを嗅いだ人の心象風景を割りと安易に使用しているので、後半ではその手法のありがたみがなくなっていたのだ。「パフューム」で違和感を感じたのは、このあたりのクリシェに頼りすぎている部分だったんじゃないかと思っている。

本作では、あちらこちらのシーンで出来上がった料理を美味しそうに視覚化している。ところが、味わった人が幸福になる心象風景を描くシーンは実はクライマックスの1シーンだけなのだ。だからこそ、そのクリシェがこの物語のキーとなるキャラクターの何をどう変えたのかを表現する上でものすごーく効果的に機能しとるのだ。ちなみに本作を制作する上でアニメーターに料理教室を受けさせたという話を聞いたが、それもさもありなん・・・というくらい調理のプロセスの再現も自然な感じに練れていていいっす。

また、ほとんどレミーの木偶人形状態だったリングイニくんも当然の葛藤をきちんと克服していくプロセスも描かれていて好感度高いっす。強いて難点を挙げれば後半の展開が若干ぎくしゃくしてるかなという点。そして、ネズミがうじゃうじゃ登場するので生理的に嫌な人ももちろんいるかもしれん。しかし、自分にはほとんど問題ではないっす。

ちょうど、家族でフリマに参加した時の売り上げで買った「塩キャラメルのモンブランショコラ」がものすごく美味しかったので、気分はアントン・イーゴだったりしたりする。

(*1)第一作でのバズの嫌味な感じとか糞ガキ、シドの「うん、うん、わかる、そのノリ」とかゆーキャラクター造形と反発していたウッディとバズが協力していく展開の巧さ。第二作における「玩具と子供の成長の関係」をサブテーマに設定した着眼点の確かさと炸裂するヲタクノリのブレンド具合。しかも、これらの要素が無理なく一般的な観客に訴求したのは驚きでもあった。ちなみに「ウッディのラウンドプレイス」は通俗的なカントリーウェスタンな人形劇のイメージで本編というのがあれば観てみたいと思う。

(*2)子供の悲鳴がモンスターの世界のエネルギーだったり、モンスターにとっては子供の方が危険な存在という設定が面白い。さることながら、「どこでもドア」状態のこちらの世界とあちらの世界を繋ぐドアの設定がクライマックスの演出では思いつく限りのアイデアてんこ盛りで、物語の基本設定はこう使うのだというお手本を見せられたような気がする。

(*3)ニモは先天的に片側の鰭が小さかったり、ドリーは長時間の記憶ができない記憶障害だったりでさりげなくマイノリティへの目配りが利いていて「親父の子離れ」をメインに展開される脚本もグーである。タンク・ギャングの連中も好きだが食い意地の張ったカモメ軍団も捨てがたい。

(*4)ウォッチマン的なヒーロー監視プログラムなんてヲタなネタから、冴えない保険屋に身をやつしたスーパーヒーローが家族とともに自分の居場所を見つけるとゆーファミリー向けなストーリーに展開してしまうのがすごい。また冒頭に登場するインクレディブル・モービルがアントン・フィーストがデザインしたバット・モービルみたくヲタク魂をビシバシ刺激してしまうのだ。実はマックのハッピーセットについていたこのミニチュアが欲しかった・・・。この監督は傑作の評価の高い「アイアンジャイアント」(未見です)も撮っておる。
なお、邦題については「インクレディブル一家」が「ミスター・インクレディブル」ではニュアンスが違うと思うのだがどうだろうか?「America's Sweet Hart」が「アメリカン・スイートハート」だったり「Big Fat Greek Wedding」が「ビッグ・ファット・ウェディング」だったりするのも含めて、一見原題をカタカナにしただけ風の邦題って、下手に日本語タイトルつけるより性質が悪い気がする。
ちなみに、この映画のために「ファンタスティック4」はSFXシーンを作り直すはめになったというのは有名な話であるが、「ファンタスティック4」が「トムとジェリー」の製作で有名なハンナ&バーバラプロでTVアニメ化されており「宇宙忍者ゴームズ」というタイトルで日本でも放映されていたことを指摘する人があまりに少なすぎる!やはり、「ファンタスティック4」ではなく「宇宙忍者ゴームズ」という邦題で公開するのがスジであろうし、当時のあまりなノリの吹き替えも再現して欲しかったというのは自分だけではないはずだ!ついでに言わせてもらえれば「スクービイ・ドウー」も「弱虫クルッパー」の邦題で昔の日本語TV版主題歌をピチカートファイブにやらせて公開した方がよかったと思うのだが。

香水の話
週末にようやく、公開当時に時間が合わなくて観れなかった映画「パーフューム-ある人殺しの物語-」と「レミーのおいしいレストラン」を観る。

まず、「パーフューム-ある人殺しの物語-」である。

パトリック・ジェーキントによる原作小説「香水ーある殺人者の物語ー」が翻訳された当時に手にしたのだが、これが結構面白かったのだ。自身は体臭を全く持たないが超人的な嗅覚の持ち主であるグリュヌイユが、街角で出会った少女の体臭を永遠に閉じ込めるため調香師となる。しかし、その香りを手に入れるために・・・という物語だ。まるでほら吹き男爵の嘯くほら話のような奇想譚ともいうべき世界が展開され、クライマックスの聖人伝のパロディのような展開にいたっては暗い笑いのような感覚さえ覚えたのだ。

さて、その小説の映画化である。

いや~、いい線まで映像化していると思う。冒頭の腐った魚の悪臭漂う巴里の下町の再現といい、グリュヌイユの嗅覚が追いかける対象をカットバックすることで臭いの感覚の映像化にある程度までは成功していると思う。おまけにコスチュームも恐ろしく汚い貧困層から富裕層のこ洒落た香水の臭いがぷんぷん漂ってきそうな格好まで、よく出来ており観ていて楽しい。おまけにクライマックスの刑場のシーンからラストの天使降臨のシーンまで、小説の馬鹿馬鹿しい部分まできちんと映像化しておりグーである。

惜しむらくは小説の地の文を使用したナレーションであんなこと、こんなことを説明しちゃっているので、監督の解釈とかそんなものが入り込む余地が意外となかったのが残念といえば残念。古いドラマトウルギーに従ったのかなという気もする。また嗅覚という生理的な感覚を視覚映像に置き換える行為には当然困難がつきまとうことは理解しているつもりなのだが、表現にもう一声欲しかった・・・というのが正直な感想である。

ちなみにこの映画、小説ほどグリュヌイユというキャラクターを突き放して対象化していないような気がする。そのため、単に少女の記憶としての体臭へのフェティッシュな拘りが物語を駆動するのではなく、体臭を一切もたないために誰からもその存在を認知されない希薄な個であるグリュヌイユが、自分を世界に認知させるために無駄な足掻きをし絶望していく姿への同情の方が若干勝っているかなと思ってしまった。

そこで、思い出したのがバリントン・J・ベイリーのSF小説「カエアンの聖衣」。知ってる人は知ってるワイド・スクリーン・バロックの傑作である。この小説の主人公も無個性な存在で、「衣装は人なり」という哲学を持つ惑星カエアンで作られた聖衣に支配され超人的な能力を駆使して奇想天外な物語を展開するのだ。こういった観点で観ると色々バリエーションが出来そうだぞ。

無個性故に超人的な演技力を発揮してカリスマ俳優となるが、結局自分が希薄な個であることに気がついて絶望してしまう俳優。あるいは何も主義主張も個性すらもないが超人的なノリと空気を読む力でカリスマ的に政局を動かすが、結局自分が操り人形であることに気がついて政界から隠居してしまう物語・・・アレ?


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