AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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ベラ・ルゴシは生きていた・・・か?
準備していたネタが幾つかあったのだが、そんなものを全て吹き飛ばす事件があったのでそちらを優先する。

筋金入りのファンであれば、目を疑うものを見つけてしまったのだ。まさか、そりゃないだろうなと思っていた。だって、あの偏屈ゴスオヤジ4人組だぜい?

そう、バウハウスの25年ぶりのスタジオ・レコーディング・アルバム「GO AWAY WHITE」だ!

いやあ、突然の再結成時のライブアルバム「GOTHAM」から早10年、アメリカのアダルト・コミックを原作にしたアニメ映画「HEAVY METAL2」に提供したスタジオ・レコーディング曲「TheDog'sVapour」もほとんど隕石に衝突したような偶然の産物なんだろうなと思っていただけに、マジに予想もしなかったのだ。

正直、98年当時のスタジオ・レコーディングの音源、「TheDog'sVapour」もデッド・キャン・ダンスのカバー「severance」もイマイチだったのだ。なんかピーター・マーフィーとラブロケ組との間の空気の違いみたいなものがそのまんま音に出ちゃっている感じだったのだ。だから、実は「ピーター・マーフィーwithラブ・ロケ」なんて音になるんじゃないかとビクビクしてたのだ。

で、聴いてみたら「21世紀のゴスなジギー・スター・ダスト」だったりする。18日間でほとんど一発録りという噂なので、タイトなバンドサウンドはやたら整合感があって躍動感がある。漆黒の闇を期待すると、判読に窮するアルバムジャケット同様、オフホワイトな印象の仄昏さにビミョーな肩透かしを食らわされるが、個人的には全然OKだったりする。どちらが歩み寄りを見せたのかはわからんがとりあえず、この音はアリだと思う。ちなみに「TheDog'sVapour」は本アルバムに収録されている新録の方が好きっす。

ロートル・ファンとしては相も変わらぬゴリゴリのバウハウス節を聴いてみたかったような気もする。しかし、あの4人組がセルフパロディを演じているとこは流石に見たいとは思わんので、必然性を感じられるこーゆーアルバムでよかったとまずはほっとしている。

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う~ん、おらあゴスでなくてもいいや
村野瀬様のコメント欄でルイ・アラゴンに反応したのが意外に思われたようだった。で、ポップカルチャーとしての「ゴス」というキーワードが一般的にどのように受容されているのか?ふと悩んでしまったのだ。

要は最近、流通している「ゴス」というものは80年代初頭からゴシックなるものと付き合ってきたつもりの自分の認識しているものとは全く異なるものなんじゃないかという素朴な疑問である。本当はゴシック・ロリータなるものが出現したあたりで既に割り切って然るべきだったのかもしれない。

レッテル貼り自体は決して好きじゃない。しかし、世間的に流通しているレッテルを使用するのは一々説明するのが不要で手っ取り早かったりする。だから、ゴシック・ノワールなんぞを標榜する訳なのだ。ところが、時としてこのレッテルがビミョーな裏切りを働く。

これが世間一般の認識だとは思わない。「ゴシック」というと極めて文学趣味、審美主義的性格が強い世界であり、ポストパンク期のロック形式主義を解体する過程において、その脆弱な形式性をかろうじて繋ぎとめるための命綱として機能していた強固な精神主義的な要素だったと思っている。だからヘビメタのように本質的に大仰で様式性の強いサウンドがゴシックっぽさとドッキングしても単なるギャグにしかならないし、クラシック志向を強固に推し進めてゴシックホラー映画のサントラみたいな方法論を導入しても古典的浪漫主義の形式性を内包する限り宝塚気分全開な代物にしかならない。別にエレガント・ゴシック・ロリータを提唱したMANA様が率いたMaliceMizerがそれだったと名指しするつもりはないが・・・。

要はゴシックはポストパンク期に「夜想」で紹介される衒学趣味的な世界、シュールレアリズム、仏蘭西高踏派、象徴主義、審美主義、暗黒舞踏、ノイズ、アヴァンギャルド等と同時に等価なものとして違和感なく入ってきたものだった。別にゴシックとして分類済みでパッケージされたものを受容していた訳ではない。有象無象のガラクタの中から共通する独特の薫りを放つ要素を必死になって探し出すプロセスの中から浮かび上がってきたものにすぎない。

荒俣宏の紹介するブックス・ビューティフルとまるで連動するかのように発行される新書館のペーパームーン・シリーズ。海外の写真専門誌「ZOOM」の日本版やら「PHOTO JAPON」の発刊。クラシックを聴く一方でノイバウテンみたいなノイズ・エクスペリメンタルな音も当たり前に聴いていたし、独逸浪漫主義に想いを馳せる一方でカンディンスキーを、ポートレイト写真家としてのルイス・キャロルを偏愛する一方でフォト・マニュピレーションの極のようなホリー・ワーバートンを・・・。

そんな行為はバブルがはじめるあたりまでの80年代裏面史的な時代の空気の中では自然なことだったのかもしれない。そんな風に手探りで掻き集めたものが、たまたま「ゴシック」という括りの中におさまりがよかっただけなのだ。

現在の日本で流通している「ゴス」は「欧州キリスト教圏の暗黒でろでろな風土性、歴史性、文学的意味性、そして精神性やらのなにやらの束縛から軽やかなほど自由に解き放たれており、その形式性、様式性を謳歌している」と分析してみせるムキもある。その物言いはあたかも「スタイルやフォーマットこそがゴスの本質である」とさえ聞こえる。確かに「そもそもの成り立ちとは無関係に、そして自由な形で受容されてしまう」ことはポップカルチャーの宿命であり、そこに難癖つけて説教する権利なぞ誰にもない。

しかし、圧倒的な違和感を感じざるを得ないのだ。

「強固な美意識と堅牢な精神性の上に展開される自由な形式こそがゴシックの本質なのではないか」と断定する自分は、これほどまでに異なるゴス観をつきつけられると「う~ん、おらあゴスでなくてもいいや」と自ら標榜した筈のレッテルを投げ出したくなったりするのである。

祈りと魔女の叫び
「日常医療に於いて、救急医療体制の欠如はたなに上げ、一番辛い敬意に満ちた環境、むかつくような憐れみと、生きようと努力してもムダだと、はなから彼らの葬式を期待して患者にウソまでついて説得する環境、常に試され、取材され、隔離され、じわじわと拷問され、死または大量殺戮のことのみ考えさせられている環境の中で戦っている人々。」ヴォイス・パフォーマー、ディアマンダ・ギャラスによるHIVポジティブ、AIDS患者の定義である。

あえてシンガーとは呼ぶまい。グランド・オペラで通用するトレーニングを受けてきた経験をフルに駆使し、「精神分裂症を芸術形式に変えてしまった」と言われる純粋表現として彼女は叫び、歌う。独逸表現主義オペラのシュライ(叫び)と呼ばれるパフォーマンス形式の影響下にあるということなのだが、そんな予備知識は不要だ。彼女は正気と狂気の間を自由に行き来し巫女と聖女、魔女の役割を演じていく。そして、語義矛盾のようだが、その表現はアヴァンギャルドという定形すら軽々と飛び越えていく。

86年、兄のフィリップ・ギャラスがAIDSが原因の併発症で亡くなっている。その頃に連作「赤死病の仮面」として「The Devine Punishment」「Saint of the Pit」をリリースする。(第三部もあるのだが、こちらは未聴)葬送と最後の審判をテーマにしたものであるがリリース当時の彼女は「人々が死について否定的とかみなす以前の観念を見据えている。そして、過去でも未来でも幻想でもない、本当の現実を、真実の恐怖を歌っている」と言う。彼女の表現の核には、常に社会の偏見に満ちた差別意識、無知による恐怖との対峙があるのだが、それは単に言語の領域だけではない。彼女の表現形式自体でさえ蒙昧な音楽的形式主義と衝突する。彼女の音源を聴くことは、音楽を聴く行為にすらマスメディアによるバイアスがかかっており、どれだけの差別意識や無知がはびこっているのかを思い知らされることでもある。

以上、つらつら書き連ねてきた訳だが、音源について簡単に触れておきたい。
一番、好きなのは最初に聴いた連作「赤死病の仮面」として作成された「The Devine Punishment」と「Saint of the Pit」のコンピレーション盤。当時のライブパフォーマンスを収録した「PlagueMass」もあるがコンピ盤の方がまとまりがいい。
どうしても怖いのは嫌だというムキには、本人のピアノ弾き語りによるカバーアルバム「The Singer」が楽曲としての骨格を留めているのでとっつき易いかもしれない。といってもマリリン・マンソンより怖い「I put a spell on you」が収録されているが・・・。
コンパクトにまとまった「Vena Cava」,暗黒度数高めの「SchreiX」、ピアノ弾き語りのライブ盤「Preyer and marediction」と色々あって薦めるのにも迷うのだが・・・。
やはり一押しは元ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズとの共作「Sporting Life」。ロック的ダイナミズムと骨格がわかり易いし、ギャラスの魔女の狂乱声が楽しめるので、初めてでも大丈夫。ぜひ、聴いてみていただきたい。

冒頭のギャラスによるAIDS患者の定義。あれは特別な誰かについての物語ではない。無知と差別、偏見、誤情報の生み出した虚構が取り巻く我々の現状なのだ。

*

どーでもいいけど、ギャラスの音源を聞かせた水はどんな結晶を形作るのだろう?

デス・カルトについて
デス・カルトの話をしようと思う。

某国を死に導く狂信者集団「日本会議」のことではない。勿論、オウムのことでもない。
ポジティブ・パンクを出自とするサザン・デス・カルトが米国でブレイクしたハードロックバンドのザ・カルトに変貌する前の過渡期的なバンド,デス・カルトのことである。単に名前が短くなっているだけじゃん・・・とツッコムあなた、ある意味それは正しすぎる。

ポジティブ・パンクというのはゴシック・ロックと呼ばれるジャンルの中でもオリジネイターであるバウハウス,ジョイ・ディヴィジョンの持っていた美意識やら知性、アート志向をキッパリ放棄し、ポストパンクの内包した暴力性、反社会性、反宗教的な部分を過剰に戯画化して黒尽くめ、白塗りひび割れなホラー映画さながらのビジュアルを積極的に纏った連中である。フツーの知性を持っていたらセックス・ギャング・チルドレン、サザン・デス・カルト、エイリアン・セックス・フィエンドなんてバンド名はぜってえつけないであろう。
80年代のフューチュラマ・フェスに参加したバンドをNMEが一絡げにポジティブ・パンクと総称したところが始まりと言う。前述したような連中のどこがポジティブなのかは理解に苦しむところである。おまけに縮めてポジパンと言ってみると恥ずかしい感と頭悪そ感が一気にブーストするので発語してみることをお薦めする。

ポジパン御三家のセックス・ギャング・チルドレン、サザン・デス・カルト、ダンス・ソサイティを代表格にエイリアン・セックス・フィエンドやらスペシメンと言えば、ゴスの本家本元バウハウスのメンバーやバースデイ・パーティーのニック・ケイブあたりから毛虫のように嫌われており、インタビューなんかでも「ゴスとひとくくりにしてあんなのと一緒にするな」とかクソミソに言われている存在である。実際、これらのバンドをゴスコンピで何度聴いてみてもピンとこなかったのは自分のセンスの問題ではなく、やはり単につまらなかっただけなのだと思う。

上記の理由からゴスを標榜しているにも関わらずポジパンと括られているバンドを聴くのは問題外であった。もちろんASフィエンドのPV集購入したりとかゴスコンピで網羅的にチェックしてみたりとか色々努力はしてみた。しかし、聴いてるだけで自分まで頭悪くなりそうな音世界には目の前がクラクラして無駄な努力は辞めたのだ。

にも関わらず、先日いきなりデス・カルトに手を出したのはレコファンでデスカルトの唯一の音源「GhostDance」が中古で安く出てたからに過ぎない。我ながらチャレンジャーである。ちなみに、この音源はリリースされた全シングル3枚をかき集めた代物だ。デス・カルトとしての活動期間中にフルアルバムが作られていないところが実に80年代のインディーズだ。まあ、ディストリビューションがベガバン(*1)だったことと、以降のザ・カルトとしての活動が普通に受容されている事実が、他の有象無象のポジパン軍団よりも購入へのハードルを低くする決定打であった。

正直言って、ザ・カルトを聴いた時「あまりに普通のハードロック」で「いい」とは思わんかったのだ。ゴスの欠片も感じられなかったし、どっちかとゆーとネイティブ・インディアンの雰囲気ものにかぶれただけのハードロックというイメージだったのだ。おまけにゴス・コンピで聴くSDカルト期の音も個人的には「なんだかなあ」という感じだったのだ。どっちに転んでもハズレしかないような気もしたが、中古で安いしい、ハズレでも仕方あるまい程度で聴いたのだ。その感想と言えば・・・。

あえて言う、ツボであると!

なんつーかSDC期のポジパン特有の音楽的輪郭の希薄さをザ・カルト期の骨組みで補強しているといったらいいのだろうか?ザ・カルトではその骨組みの方が勝ちすぎており普通にミュージシャンシップが発揮されている。そのためポストパンクの感性一発、山師的なノリがあまり感じられなかったのだ。むろん、山師的なノリだけでも駄目なのは言うまでもないが、そのあたりのバランスがデス・カルトは絶妙なポイントだったのだ。アングラ感がそこはかとなく漂うところがこのままでブレイクできなかった理由の一つだと推察する。この短期間でさえドラマーが変わったりとメンバは安定しておらず音楽的過渡期にあったことが、たまたまいい方向に作用しただけなのだと思う。問答無用の説得力があるかと言われれば勿論口篭もるしかない。しかし、そのB級っぽいアングラ感こそが好みだったりするのだ。

他人様に薦められるバンドかと言うと、真性ゴスな人にボソっと「いや~実はデス・カルトも意外とツボなのよ」と言えるくらいである。ふんとにT.REXやらジャム、スタカンを「いいぞ」と誉めるのと違って、「誉めるのもちょっと後ろめたいポジパンって・・・」と思う今日この頃である。

(*1)ベガーズ・バンケット。レコード屋を母体とする70年代末から出てきたインディペンデントレーベル。80年代初頭に会社が大きくなってからも、新人アーティスト発掘を目的とし小回りが効くように4ADやシチュエーション2等の子会社を設立する。ちなみに4ADはゴシック、耽美的色彩が強力なレーベルカラーを持っていた。リリースされるレコードデザインは23エンベロープというデザインチームが一手に担っておりレーベルとしての統一感もかなりのものであった。一時期、4ADであれば買うということをやっておりました。



「ブラザーズ・オブ・ヘッド」の話
先日、ブライアン・オールディスの「ブラザーズ・オブ・ヘッド」(河出書房)を発見!

今年のド頭に映画化された本作が日本でも公開されているので、そちらの方で知っとるムキもおるかもしれん。(残念ながら未見)
英国北部のレストレンジ半島に生まれ育った結合双生児のハウ兄弟がデュオ”バン・バン”としてポップスターとなり、失墜する物語だ。主人公は腰のあたりで繋がっているハンサムな二人なのだがその肩に三人目の頭があるというかなりの設定だ。(どうも映画の方は二人だけらしい)

結合双生児というと萩尾望都の「半神」やジュネ&キャロの「ロスト・チルドレン」あたりから、ボビー・ブライトの「ロスト・ソウルズ」に登場するバンドのモデルになったとされる双子の美形がフロントマンのジーン・ラヴズ・ジザベルなんかを連想してしまうのだ。人によってはクローネンバーグやグリーナウェイかもしれん。主人公が結合双生児のポップアイコンというだけでOKでせう!

おまけにブライアン・オールディスといえばSF界NWの重鎮。「グレイベアド」やら「地球の長い午後」「爆発星雲の伝説」「蓋然性Aの報告」「マラキア・タペストリー」と個人的にはツボだし、広義のビルディングス・ロマンとしての「手で育てられた子供」なんてのもあって、読む前から妄想は膨らむ一方であった。

ストーリーはハウ兄弟に関わった人たちの手記のスクラップという形で語られる。このことで言外に語られているエピソードも含め、多層的な見方が提示されているのだが、読後感はそんなに小難しい印象はない。断片的に語られたエピソードをかき集めてちょうどいいくらいの書き方だ。本当に、絶頂期でノリノリのオールディスが軽く書き流した感じなのだが、そのノリがいい方向に機能している。クライマックスへの展開は、あらかじめ予想できるものなので意外性はないが、バン・バン、その後のエピソードでの半島の描写が終末の風景っぽくてすっげえ好きだ。

原書はイラストレイテッド・ノヴェルという形で発行されたのだが、イアン・ポロックの手になる悪意でグロテスクにねじけたようなイラストも本文庫では収録されており、これがまたいい。個人的にはマーヴィン・ピークのゴーメンガストを連想しちまったぞい!

映画の方はティーニーポップというよりもパンクっぽいイメージ設計になってるようなので、そちらも早くチェックしなければ!

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