AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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楽園の日々

個人的に大変ショックな話題である。
「2001年宇宙の旅」の原作者として一般には知られているアーサー・C・クラークがお亡くなりになられたのだ。(*1)

自分が中学の頃、SFに転ぶことになる原因を作った作家が3人いる。一人はノース・ウェスト・スミス・シリーズで有名なC.L.ムーア。「百億の昼と千億の夜」の光瀬龍。そして、続く3年間の読書行動に最も多大な影響を与えた最大の極悪人が誰あろう、このアーサー・C・クラークだったのだ。

ごく常識的なSFファンのしきたりとしてはクラーク、アシモフ、ハインラインは最低限の必須教科であった。少なくとも周囲ではこの3人を読まずしてブラウンに手を出すようなのは、小松左京も読まずして星新一のショートショートだけでSFを語るような邪道だとして弾劾されたのであった。

以前、起動エレベータについて書いた時も触れたのだが、クラークは技術畑出身らしいハードSFの第一人者なのだ。静止通信衛星のアイデアを出したのはクラークが最初だったという話もある。その作品に対して科学的描写には生き生きとした筆致を見せるが人間描写はステレオタイプでつまらないという普通の文学作法からの批判もある。しかし、クラークの小説で描き出されるのは人類のそのものについての考察だったり異星文明とのありうる接触だったりするのだ。そもそも「個々の人間についていちいちかまってられるかい!」くらいの勢いで書いていたのだと思っていたりする。

クラークの作品は大別すると以下の傾向がある。

超技術を背景とする遠未来、地球外知性との接触を通して人類の運命を考察するタイプの作品群。
「幼年期の終わり」「都市と星」「2001年宇宙の旅」など

リアリスティックな近未来像を生き生きとした筆致で描き出すタイプの作品群。
「渇きの海」「海底牧場」「地球光」など

両方の要素を兼ね備えたタイプの作品群。
「宇宙のランデブー」「楽園の泉」など

中にはクラーク流のユーモアが楽しめる科学ジョーク集みたいな「白鹿亭奇譚」なんつーのもある。

どれが好きかと言われても選びようがないのだが。強いて言えば「銀河帝国の崩壊」かなア・・・。すげえ偏屈モノである。(*2)

そこに描かれる世界はナイーブなガキの全能願望を絵にしたようなものかもしれない。あちらこちらに見え隠れするあまりにオプティミスティックな技術信仰に鼻白む大人な方もいるかもしれない。ブレードランナーのデッドテックな退廃とデスパレートな風景を通過した後では、その世界はあまりに牧歌的風景に過ぎるかもしれない。しかし、未だにこのクラークの描き出す世界が好きだ。要は未だにガキだということなのだろう。

ニューウェーブ、サイバーパンク、スチームパンクやら単なるハードサイエンスだけではなく混沌とジャンルも細分化したSFではある。しかし、その根幹がなんであったのかを問われたら迷うことなく自分はこのように答えることができる

SFの基本はクラークだ。


(*1)「2001年宇宙の旅」作者、スリランカで死去
3月19日8時36分配信 ロイター

 [コロンボ 19日 ロイター] 小説「2001年宇宙の旅」で知られる英国人サイエンスフィクション(SF)作家アーサー・C・クラークさんが、スリランカで死去した。90歳だった。クラークさんの秘書が19日明らかにした。
 秘書によると、死因は心肺機能の不全。1917年に英国で生まれたクラークさんは、70年近くにわたるキャリアの中で80冊以上の著作と多くの短編小説や記事を執筆。1940年代には、2000年までに人類が月に到達すると予想していた。
 クラークさんは昨年12月、90歳の誕生日に友人向けの別れのメッセージを録音。その中で、生きているうちに地球外生命体が存在する証拠を見たかったと述べていた。

(*2)知っている人には言うまでもないが「都市と星」の原型となった初期作品である。目くるめくようなダイアスパーのイメージこそないが若書きともいえる初々しさが捨てがたいのだ。
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こーゆーのって演出的にいかがなものか?

先日「地球へ」の再放送をたまたま目にしたのだが、なんかすっげえ違和感があったのでなにが原因なのか考えてみた。

まず艦隊戦での各シーンで登場人物の目線の高さにカメラを合わせた映像が全くないのだ。普通ならキャラのいる艦橋の高さ、あるいは代替となる高さで戦艦を捉えた映像があって然るべきなのだ。しかし、どれもロングで見下ろしたり、見上げたりばかり。なんか書割的な印象で、そのシーンが誰の視点なのかがまるでわからないのだ。だからトオニイの小型戦闘艇がミュウの旗艦モビイ・ディックに突入された突撃艦の脇を通り過ぎざまに驚くシーンがあっても、映像的には既に客観的な状況説明がされているから「あ・そー、へー、ふーん」とゆー印象で、今さらなにを驚いているのか何をあせっているのかがわからない。

また、衝撃砲発射の反動で砲身の後端が後退したりとか、蒸気カタパルトにフッキングしたバルキリーの後ろにデフレクターを立ててアフターバーナーで発艦するといったようなミリタリックなシーケンス・ワークもろくすっぽ描写がないので、地球軍の突入部隊の描写も「らしさ」っつーものが、まるで感じられないのも難点だ。これは「ヤマト」みたいな戦争ものじゃないんだからという反論もあるかもしれん。しかし、原作の方はメカ作画にソノラマコミック版「ヤマト」を描いた未来騎士シリーズのひおあきらが協力、参加しているのだ。そのことを考えればミリタリックな描写をキチンとやるべきではないかとつい思ってしまうのだ。

おまけにミュウ側が残酷に殺されるカットはあっても地球軍の死はほとんど描かれてないので、戦況はミュウ側の圧勝、一方的な虐殺状態。なのに、まるで自分たちばかり殺されたみたいなやけに不景気な雰囲気というバランスの悪さ。言い方悪いが戦争なのに自分たちばかりが被害者みたいな描きかたなのだ。確かにストーリーの動機付けの部分は確かに「迫害されるミュウ」という図式はあっても、キース側の動機付けというものもあったはずなのだ。しかし、その視点がすっぽり抜け落ちているのだ。別に地球軍を同情的に描写せいと言っているのではなく、戦争なんだから地球軍の兵士も残酷に殺されていることを示唆するカットが全く入らないのはおかしいんじゃないかい。大体ジョミー・マーキス・シンは平和的な解決の可能性を悩んでいるのだからなおさら、そーゆー視点が入らないのはおかしいやろ?こーゆー戦争観を好きな連中が増えたのだろうかとつい穿った見方さえしてしまうのだ。例えば、えらそうな上長ザクが下っ端ザクをシェルターから追い出したらシェルターに飛び込んだ手榴弾で粉々にされるとか、「母さん」と叫びながら死ぬ学徒動員なジオン兵とかそーゆー描写が1カットでも入れば受ける印象が違うということだ。

これってたまたまなのかなと思って、立て続けに「ガンダム00」も見てみたのだ。しかし、こちらも同様にストーリーとして必要なカット、脚本上のエピソードがなかったりして、プロットやらエピソードとしては何が起こっているのはわかる。しかし、ストーリーがどうなっているのかがさっぱりわからないのだ。(*1)逆に、シーンのド頭でいちいちフルネームで呼んだりするのは、なんかのギャグか嫌がらせかとつい突っ込んでしまうぞ。

最近のアニメってキャラ設計も動画設計も必然性から作画されるのではなく絵面だけはキレイに仕上がる設計だよな・・・となんとなく感じていただけに、どちらの作品もその悪印象を悪い方向にブーストするだけの結果となったとゆーことだ。要はドラマを成立させるための脚本上のお約束、最低限の映像上のお約束さえ守られてないんじゃないか。で、そーゆーものを平然と作ってしまえる演出家が仕事できてる状況やチェックできない制作体制ってかなりヤバイんじゃないかと思った今日このごろである。(*2)

(*1)「ガンダム00」ってガンダムのスピンオフ世界を作って馬鹿売れしたアニパロ同人誌を本家本元が殿ご乱心状態でアニメ化。(キャラデザが高河ゆんだしい・・・)公共の電波で放映しているような印象なのだ。こーゆー企画が通ってしまう時点でバンダイ、サンライズ、本当に大丈夫か?

(*2)ちなみに深夜にTVをつけていたらたまたま目にした「墓場鬼太郎」は絵柄などに対する好悪はともかく、演出意図がクリアでこれらの違和感は感じなかった。また深夜にやってたレトロチックな「鉄人28号」も積極的に見ることはなかったが、明確な意思と演出意図は好感が持てたのだ。だから、全ての制作体制が駄目駄目なのではないと思うのだが・・・。

地には平和を・・・そして慈しみを
ピンっと来た方にはもはや説明不要であろう。

無印時代から付き合って読んでおったのだから既に10年以上の歳月が流れている計算だ。「ジェダイの帰還」で見捨てたSWなんかより、真剣に「柔らかな笑顔の人間台風と呼ばれた男」の旅の終わりを待ち続けていたのだ。昨日(2/27)、最終巻刊行。堂々の完結である。最終回を連載で読んでいたとは言え、まとまった形でようやく読めるのである。

これはヘタレで天然で完全平和主義の伝説、無敵のガンマンが、宇宙船団の事故のために不時着した人類が生き延びた惑星を舞台に、その存亡をかけて派手派手にドンパッチングするディープ・スペース・ガン・アクションな物語だ。

ファーストコンタクト、世代宇宙船、失われた植民地の再接触といったSFのサブテーマとか生態系そのものをネットワークとして進化した知性とかいったマニア魂をビシバシ刺激する小ネタやらが大きな物語を構成する上で有効に機能している。そして、主人公と双子の兄との葛藤が最後の最後までどのように昇華されるのか目が話せなかったりだとか、サブキャラ、悪役キャラの造形も含めてツボ突きまくり。「たった一つの命も奪いたくない主人公がどこまで見限らないで圧倒的な現実と対峙できるのか」なんてアホなテーマを直球勝負、本当にどこまでも馬鹿正直にとことん展開するのだ。

最終巻のクライマックスはどーしても見たかった画だし、「愛すべきタフな日々は決して終わらない」というまさにそうでなければいけないラストなのだ。

も~っ、ふんとに手前勝手にすんげえ盛り上がっててしゅみません。
もしかしたら、冷静に別のエントリで書き直すかもしれません。でも理屈じゃなく、ただっ、ただっ、天然馬鹿なこの漫画が大好きなんす。あ、肝心のタイトルを忘れてた。
「トライガン・マキシマム」内藤泰弘(少年画報社)

さあ、みんなで

「地には平和を・・・そして慈しみを!」

世界の戦争を一年間止めたなら
子供のつきあいで日本科学未来館に行ってきたのだが、そこの全天周映像ドームシアターガイアで上演していた「宇宙エレベーター」を観て色々連想してしまった。

宇宙エレベータというのは静止衛星軌道上の中継ポイントから天上と地上に構造体を伸ばし、遠心力と重力で安定するといった建造物っす。理論上は昇りと降りのペイロードを調整することで宇宙に手が届くことができるのだ、それも低コストで。

上映されたアニメーションはベタな子供向け科学解説な内容なんで脚本的には見るべきものはないしキャラクターのアニメーションにもかなり難ありだと思う。しかし、宇宙エレベーターのディティールについてはかなり詳細につっこんでおり、個人的には繋留点にアンカーしてない地上側末端の描写なぞ無意味に燃えてしまったぞい!

19世紀末に旧ソ連のユーリ・アルツターノフが出したアイデアなのだが、これに基づくSF小説が同時期に発表されている。一つは「2001年宇宙の旅」の原作者アーサー・C・クラークによる「楽園の泉」、もう一つはチャールズ・シェフィールドによる「星ぼしに架ける橋」である。どちらも宇宙エレベータの建設を扱ったものであるが、前者は宇宙グライダーの接近といったコンタクトテーマやクラークの愛したスリランカの歴史をサブテーマとして絡めながら格調高く、ありえそうな開発手順で描かれていく。後者は翻訳当時「ルパン3世」みたいと評されたガジェット感覚のある軽めのミステリータッチで展開される。しかし、大きな違いは地表の繋留点に宇宙エレベータを建造するためにアンカーする方法である。シェフィールドのアイデアはクラークが「身の毛もよだつ」と評したようにかなりエグいものっす。常識的に言ってこんな繋留方法は誰も許さんぞ!
ちなみにクラークは流石に技術屋らしく建造アイデアがクライマックスで密接に関わっており、当時やられた・・・と思ったものである。(そんなに大袈裟なシーンではないが)

ここで気がつかれた方もいるかもしれないが、SF小説では地表にアンカーするのが主流(?)なのだ。だから今日アンカーしてない描写を見て思いっきり盛り上がってしまったのだ。う~む、確かに段階的に建造し、まずは対流圏の外でシャトルがランデブーするシステムから・・・という手順を考えたら合理だよなあ。とはいいつつもアンカーせずに対流圏で建造物を維持する技術力はかなり超技術だよなあと思う今日この頃である。

でラストに宇宙エレベータの建造を研究している人たちの言葉が流れるのだが個人的には次の台詞が最も重かった。

「世界の戦争を一年間止めてそのお金を使ったなら、2018年には宇宙エレベータは実現可能だ。」

正則性という正義と組織力学のハードSF
無茶苦茶好きな「宇宙船オロモルフ号の冒険」について、書いてみたい。

工学博士でもある著者、石原藤夫による応用数学テーマの、というよりズバリ複素関数テーマのかなり濃いハードSFである。そもそも、この作者は講談社ブルーバックスで「銀河旅行1、2」という銀河旅行の可能性について大真面目に論じた解説書を著したり、SFマガジンの連載で亜光速ですれ違う宇宙船がどのように見えるかとかエネルギー変換効率とかについて検証したり。おまけに、ハードSF研究所なるボランティア機関(?)を立ち上げるなどハードSFに触れたことのあるものには避けて通れぬ路なのだ。

しかも、この作者のすごいところは理論的可能性を追求する上で、きちんと現時点での工学的、技術的限界を無視することができる点である。表面的にガチガチの知識で固めている人達にはできない真似である。だからこそ「ブラックホールのお茶漬け」なんてアイデアも平気で出てくるのだろう。(*1)

さて、話を戻そう。この物語は迫り来るエネルギーとエントロピーの邪悪に宇宙の正則性をかけて立ち向かう世紀末人類の英知の結晶「オロモルフ号」の戦いを描いておるのだ。ここまで読んで「なんのこっちゃ?」と思ったそこのアナタ。ある意味その直感は正しい。全五章で構成されているのだが、各章「複素関数の特異点」やら「漸近級数展開」「変分論と集合論」と補足がついてわかるように(?)、もろ複素関数の補講を受けているような気分になる展開である。もちろん物語なので予習は不要。複素関数に理解があろうとなかろうと、展開されるイメージの奔流に圧倒されること請け合いで、今まで読んだことないような世界を読みたいという生粋のSF者にはたまらない世界なのだ。実は20ン年前、高校時代にSFマガジンに掲載された第四章「苦闘」で初めてこのシリーズに触れたのだが、ここで展開される宇宙の涯のイメージは鮮烈だった。匹敵する世界は光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」か小松左京の「はてしなき流れの果てに」くらいだと今も思っている。

社会人になってから、実家のゴタゴタでどこかになくしたハードカバー版の代わりに文庫版で入手して読み返してみたのだ。その時、初めて主人公ジロウ・コイズミの「主任はつらいよ」的な世界がはっきり見えてきたのだ。実は、この物語は大規模プロジェクト内の組織力学をテーマにしたハードSFだったと断言していい。組織の部門間の軋轢の中、下部組織に位置する主人公が正則性という正義をかけた戦いの中でどのように主導権を握り、舵取りをしていくのか。そのあたりが実は今の自分には愉快痛快だったりする。

ふと思いついたように複素関数のテキストなんて読み返してみる今日このごろである。


(*1)未体験者はヒノ・シオ・コンビの活躍する惑星シリーズから入ることをお薦めする。個人的には「ブラックホール惑星」の野放図さが大っ好きである。整合感を気にするムキは「ハイウェイ惑星」がいいかもしれない。

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