AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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多分、私もあなたも加害者なのだ。
ビルマの民主化運動、民衆デモに対する武力による弾圧については正直言って、何から言えばいいのかよくわからない。
とりあえず自分の考えを整理するために。

他のブロガーの言を待つまでもなく「軍は国民を守らない」ということを目の当たりにした訳だし、また安全保障上の理由で対米追従の軍事政策を強めている日本において既にそこまで忍び寄っている危機的な状況だと思う。その現実ははっきり認識すべきであろう。ビルマの姿が明日の日本の姿である可能性は高いのだから。

さて、民主運動が弾圧されている現実を前にビルマの軍事政権に対する抗議行動、経済制裁も必要だろう。

しかし、現状では実効性に乏しいのではないかと疑っている。というのもとむ丸様のエントリ「ODA テンパーセント・マダム」で日本がビルマ軍事政権に対する最大援助国であること、日本の特定企業グループ、政治家がODAを収奪するシステムになっていることが語られている。ODAが日本企業による収奪目的で行われているという話は以前から話としては知っていた。しかし、実際にビルマの状況がここまで悪化して初めてODAが一部富裕層の軍事政権化に加担しており市民にはこれっぽちも還元されていやしなかったことを意識する始末である。

日本の経済界がODAによってビルマ(あるいはその他の国)を収奪する構造が変わらない限り、高村外相にしても「国内でも抗議の声が上がってるから、とりあえず抗議しているポーズをしとこう。ニャン・ウィーくんそこのところよろしく、てへっ」なんてレベルの対応に留まるだろうし、日本の経済制裁も適当なところで回避されODAは続くに違いない。今後もビルマの武力弾圧は「軍事政権による人権の侵害」というフレームでは何ら解決の糸口はないだろう。

このことは日本の他国からの収奪行為を無知か意図的かに関わらず容認してきた私、そしてあなたたちも加害者の一人であることを意味する。正義感や義憤で抗議行動を起こすのは当然のことだと思う。そして、その行為は無意味ではないと思う。しかし、本気でこの状況を変えたいのなら、日本政府にODAによる婉曲的な植民地主義的政策の転換を図るよう促すしかない。テロ特措法の問題も含め、私たちは覚悟を決めて日本が世界の中でやってきたこと、そしてやっていることときちんと向き合わなければいけない時期が来たのだろう。

(BGM: "JoinHands" by siouxsie and the banshees)

P.S

1件目。ここ1ヶ月間、総理大臣がいない状態だったわけだが、なんとなく国が動いているところを見ると自民党がほざく政権担当能力っつーものは幻想だということが図らずしも証明されたわけだ。もし、それでも自民党が政権担当能力云々をほざくのなら過去の実績をデータとして全て公表、アクセス可能な状態にしてもらいたい。そうすれば過去の自民党政策の妥当性が検証できるわけだし、国民も納得できるよなあ。

2点目。しばらく前の経団連の御手洗氏による「厚生年金の税金による全額負担」発言。あれってもしかしたら「企業減税、消費税増税」の言い換えじゃないかという気がしてきた今日このごろ。厚生年金の企業負担分は支払いの必要がなくなる訳だし、その分税金のどこかに組み込まれるわけだし・・・。でもって厚生年金の自己負担分を基本給与から減額なんてシナリオもこっそり忍び込んでたりして。



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「むかつく奴を殺す」ためのわかり易いフィクションはいらない
自分ってどちらかと言えば必要悪としての死刑を合理と考えているし、死刑存置論者なんで殊勝にも理論武装してみようと思う。どーせ、自分って冷たい男だしい、話がややこしくなるので加害者の人権、被害者遺族の気持ちなんつーものはほっといてコストと実効性だけで話を進めてみよう。

死刑があれば凶悪犯罪に対する抑止効果はある・・・かな?。
しかし死刑存置によって犯罪件数が激減したことを実証するデータはないよなあ。死刑廃止によって増加したという信頼するに足るデータもないけど。死刑廃止によって増加した、または減少したという意見がネット上でも併置されているところを見ると、そもそも管理されたデータはないということだよね。しかも刑罰が犯罪を抑止させる状況って、刑罰が科せられるかどうかがバランスシートに乗せられるよね。死刑になるかどうかではなく。
ところが凶悪犯罪を実行する人間は適切なバランスシートを使用しないのだから、そもそも死刑というより刑罰自体に抑止効果はないと思うのだ。同様に核武装肯定論者のいう核による均衡も実効性はないよな。(*1)

あれ?

そうだ、そうだ、再犯の危険があるじゃん。
凶悪犯罪者を野放しにしたら危険じゃん。でも、収監期間の長期化を徹底すれば再犯はないよなあ。更正するようであれば出所しても大丈夫だよなあ。
いやいや、更正する可能性のない連中だっているじゃん。そういう奴は死刑にした方がいいんじゃないかい?
確かに死刑にすれば犯罪者個人の再犯の可能性はなくなるけど、死刑にした時点でそのような犯罪者が出てきた背景は追求できずに終わっちまうよな。そうすると社会レベルでの再犯率を減少することはできないよな。犯罪抑止がもぐらたたき的なものに終始する限り治安上のコストは変わらないよなあ。特殊例であるのならサンプルとして希少だし、死刑にしておしまいにするのはあまりにもったいない。

あれ?

いや、いや、そんな屑みたいな人間を生かしておくこと自体無駄。税金で年間2~300万円のコストを投入して生かすなんて、年収300万円以下の層がいるのにおかしいじゃん。
よく考えてみると、これは死刑制度廃止の問題ではなく、そもそも一人の人間を生かすためのコストがどのくらいなのか?そしてそのコストを社会保障や福祉、セイフティネットの形できちんと低所得者層に還元できない政府の無策の問題だよな。そもそも政府には国民全てが健康的、文化的な最低限の生活を保障する義務がある、どんな思想の持ち主であろうと犯罪者であろうと。
その無策の結果による歪を引き合いに出して無駄なコスト云々というのは論理のすり替えだよなあ。

う~む。理論武装しようとしてみたら死刑を存置する合理的かつ積極的な理由は実はないという結論になっちまったぞ。

結局、死刑存置って「こいつ、むかつくから殺したい」というのが正直な理由なんだと思う。だから、その殺意を隠蔽するための装置として、客観的な事実関係の積み重ねではなく「むかつく奴を殺す」ためのわかり易いフィクションが必要なのだろう。
最近、発生する犯罪の物語性ばかりを強調して報道し、事実関係が見えなくなっている状況。こちらの方が本当は危険なのかもしれない。

(*1)どっかで国家レベルで核廃絶をしたらテロリストによる核の危険性が著しく増大するという言説を見た。核兵器の技術情報は一般でも入手できるのだから・・・ということらしい。
そういった議論っていつも、必要な核燃料をどこから入手するのかという点がすっぽぬけているのだ。テロリストがつるはし持ってそのヘン掘り起こしたら使用可能な核燃料がでてくるわけではない。核の流通をコントロール、ひいては核の廃絶が可能になった状況を想定した場合、テロリストの核兵器による危機というのは可能性として小さい。それに特定の拠点を持たないテロリストに対して核均衡論なんてそもそもナンセンスだと思うのだが。
  


日本征服を企む悪の組織の首領になったつもりで考えてみた。
よく特定アジアによる脅威論が語られるが、実際のところどうなんだろう?ショッカーでもギャラクター、ドクーガでもいいが、悪の組織の首領になったつもりで考えてみた。

手続き論としての戦略的現実性はすっとばす。とりあえず、日本を占領することに成功したものと仮定する。

しかし、国土の全てが海に面している、占拠した後に他国から攻撃されないようにするのは至難の技だ。おまけに食料自給率は50%も満たない。エネルギー資源もろくすっぽない。そんなところで戦力を維持することは、本土との間によほど強固な補給線がなければ無理だろう。また輸出を止めないようにするためには高度な外交政策が必要になるに違いない。おまけに言語や文化習慣の異なる一国を管理するなんて、日本に精通したエリート仕官が山ほど必要だ。そもそも、日本の経済が止まるようなことになれば、わざわざ侵略するためのメリットはないだろう。

少なくとも、自分だったらわざわざ武力侵攻して、手持ちのリソースを使い果たして疲弊するくらいなら、現状維持、外交政策による搾取を考えた方がいいと思ってしまう。

占領後、どうするのが一番いいんだろう?

まず、世襲的な政治家は残し建前上の民主国家を構築する。自分たちで国家を運営させれば管理するためのリソースを割く必要はないしい。そうすればコントロールしやすい政府を維持し易くなるぞ、いいぞ、いいぞ。また特定の与党が長期政権化すれば、保身のために媚びへつらう連中が純粋培養されて政権を一層コントロールし易くなるよなあ。

それから、一般大衆には支配されている実態を悟られないようにしたいけれど露骨に言論統制すると一撃で反感喰うよなあ。だったら基本的に表に出てしまう情報は隠蔽しない。それ以外のパッケージ情報をマスメディアを通じて垂れ流して情報の飽和状態を作っちゃえばいいんだ。情報が増えれば増えるほど、人間って自分で取捨選択することを放棄する傾向があるから、思考停止に陥って耳あたりのいい事実ばかり受け入れるようになるよな。よし、よし、ついでに占星術や占い師みたいなのもメディアで持ち上げて、それっぽいこと言わせるのもいいなあ。おっしゃ、それでいこう。

でもって郵政民営化してさ、その運用先をうちの組織にするよう法改正しちゃうのもいいぞ。そーして日本国民のお金でうちの組織の債券買わせてさあ、そのお金を軍需産業につぎ込んで中近東で戦争起こしたら大もうけじゃん。でもって日本で格差が固定化したら、日本の喰えない連中に声かけて「国際貢献戦士になれば一発逆転、君も勝ち組になれる!」って吹き込むのもいいね、いいね。んでもって、うちの組織の兵隊として中近東に行かせるのさ。そうすればうちのプロパーをわざわざ出さなくても、勝手に戦争に行ってくれるじゃん。最近、うちのプロパーも士気が上がらなくて駄目駄目なんよ。

でもってそのうち日本が経済的に立ち行かなくなっても大丈夫。テロ支援国家に認定すれば、債券返済する必要なんてないし、後腐れもなく始末できるし中国や北朝鮮と仲良くしとけば、そっちの方にも日本脅威論ふきこんで兵器の売り込みできるしね。うっしゃあ、このシナリオ完璧っ!

・・・って、これは米国じゃないっすか!

P.S

お玉おばさん13日の水曜日でも取り上げられている鳩山法相の「署名なしでも死刑執行を」発言。死刑制度に対する是非を保留し、必要悪と認めたとしても、この発言は無責任すぎる。人の命に対して責任を追うつもりは全くありませんと言っているのと同義じゃないかい?ふんとにこのところの政治家の発言は無神経な発言が多すぎる。小泉氏以前はまだ、建前っつーか人権に対しても取り繕おうとする様子があったのだが、小泉氏以降は無神経な発言をぶっちゃけ発言、本音トークでいいじゃんみたいなノリ(政治家には不要だ!)が感じられて不愉快でしかたない。


前言撤回はみっともないか?生き延びることは無様か?
1991年、マニック・ストリート・プリーチャーズがシーンに登場した時、前代未聞の爆弾発言「フルアルバムを一作だけ作って終わりにする。世界中でナンバーワンにして解散する」をぶち上げた。
刹那的に生き急ぐロックマナーを期待するロックファンには、あまりにかっちいい発言であった。そして、インタビューでぶちまけられる台詞はイチイチ過激で急進的、そして文学的でキマっていた。正直、言っていることのかっこよさに実際に音を聴くまで妄想はGリミッタを解除してアフターバーナー全開。いきなり高度1万フィート、惑星フェアリイの風が目に沁みるぜ・・・てなもんだった。

が・・・実際に「享楽都市の孤独(MORTERCYCLE EMPTINESS)」を聴いた時、ガビ~ン!だった。それしかいいようがなかった。もちろん、最悪の意味だ。彼らの発言から期待していたのは過激でノイジーで、その辺の知性の欠落した馬鹿者どもを音そのもので瞬殺してくれるような樂曲だったのだ。しかし、実際に耳にとびこんできたのは普通によくできた、グラムやらパンクやらを消化してハードロックのフォーマットにも目配を効かせた音だったのだ。革新的で今まで聴いたことのない音で腐れきった世界をズタズタに切り裂くような衝撃は、当然皆無だった。

その瞬間、自分にとってマニックスはビッグマウスなだけで、どーでもいいバンドの一つに分類された。結局、リリースされたフルアルバム「ジェネレーション・テロリスト」はNMEで10点満点。プレスは絶賛したがチャート上はまるっきりふるわず。おまけに解散もせずずるずるの状態になってしまったことも、それもありだろうなと受け止めていた。日本のファンに対してのみ出された解散撤回宣言も、言っていることはかっこいいけどどうでもよかったし、3rdアルバムを出した頃にバンドのスポークスマンであったリッチー・ジェイムスが精神を病んで失踪したことも痛々しいけどありがちな結果だよなと冷ややかに見ていたのだ。

1998年、バウハウス再結成公演で勝手に盛り上がっていた頃、名古屋に出張。ホテルのケーブルテレビでかかっていたプラシーボの「Pure Morning」とスマパンの「Pug」がゴステイスト全開でいいぞいいぞと思っているところにマニックスの「If you tolerate this your children will be next」がかかったのだ。

正直、吃驚した。派手さはないけれど素直に自分の中に入ってくる樂曲だったのだ。聴き手に対して誠実で音楽的に整合感があり、これなら信頼できる・・・と直感したのだ。その後、「If you tolerate this your children will be next」を収録した5thアルバム「This is my truth tell me yours」を聴いたのだが、高水準のバラードを選りすぐったようなアルバムで傑作としかいいようがなかった。前作「Everything must go」で英国一愛され新作が期待されるバンドになっているという事実は、情報としては知っていたけれどピンとこなかった。しかし、このアルバムを聴いた時に初めて納得できたのだ。
遡って「ジェネレーション・テロリスト」をちゃんと聴きなおしてみたのだが、デビュー以降マニックスは表現のコアはこれっぽちも揺らいでいないのだ。’91年当時、彼らの発言ばかりが先行して、音楽そのものをキチンと聴くことができないほど色眼鏡で聴いていたのだろう。

マニックスは本質的に誠実なバンドなのだと思うのだ。「今まで何も変えることのできなかったロック」を破壊するという幼児じみた初期衝動を誠実に敷衍しようとすれば、世界を拒絶するかのような「解散」という表現しかなかっただろう。そう発言するしかなかっただろう。しかし、そんなガキじみた自爆玉砕は失敗したのだ。その後のマニックスはみっともない過去を正視しながら、自分たちを信頼したファンに落とし前をつけるために生き続けたのだと思う。いや、正視したからこそ生きながらえることに成功したのだろう。ロック・マナーを一度でも信奉した向きは、きっと「自分が30才まで生きることはないだろう」と思ったことがあるに違いない。刹那的な生き方もかっこいいかもしれない。しかし、そんな都合のいい幕引きは全ての人間には用意されちゃいない。ほとんどの人間は自分のシリを自分で拭き続け年をとりながら生きていく他ないのだ。

そういった意味でマニックスは所謂ロックスターからはあまりに遠い地平に位置するかもしれない。だからこそ、一日一日を生きながらえていくしかない自分にとって信頼できるバンドなのである。
もはや自分は前言撤回をしたマニックスをみっともないとは思わないし、生き延びる彼らの姿を無様だと思わない。


P.S.
「Everything must go」はアサヒ スーパードライのCMでガンガン流されていたので聞き覚えがあるだろう。


正気の国家にF22はいらない
最近、航空関連専門誌でF22がとりあげられているのを見て、導入による危険性を気にしていないようなのがミョーに気になった。自分の思い過ごしかもしれないが、整理してみたい。

日本の次期主力戦闘機として上がっているF22だが、どんな機体か知っておられるだろうか?

超音速巡航、ステルス性、高機動性といった想定される最高水準のスペックを詰め込んだ機体で、現存する機体で対抗できる機体はほとんどないと自分は考えている。強いて言えば近接格闘戦においてのみ悶絶起動血戦兵器なSu37がなんとかなるかも知れない・・・というところだろう。しかし、そもそもそのようなシチュエーションはありえないだろう。スペックマニアの弄ぶおもちゃとしては最高級な超合金仕様である、一見いいこどずくめの機体だ。

きっぱり、F22は嫌いである。

ウェポンベイを内蔵したステルス性重視のデザインが不細工だからということもある。ほとんど全翼に近い主翼形状は主翼自体を可動翼として制御して高機動性を確保してるんじゃないかと見ている。しかし、そんな審美的な理由はどーでもいい。

何より自分がこの機体がだっ嫌いなのは、その開発コンセプトである。米国国防省のお偉いさんが開発時に言ったとされる「我々はF22でフェアな戦いをするつもりはない」。腐りきった素性に生まれてきた。要はそういう機体なのである。
相手に気づかれないように近づいて相手の気づかないうちにとっととミサイルを撃って、逃げるための技術の塊なのだ。どう考えても相手を殺すことを目的とした機体以外の何者でもない。余談であるが同じ理由でA10サンダーボルトもだっ嫌いである。

ここでちょっと考えてほしいのは、建前でも平和憲法護持している日本にそういう機体が必要か?

まず専守防衛が目的であればステルス性は不要であろう。侵入機を威嚇するのに忍び寄る必要なんてない。むしろ平和国家であれば問答無用の攻撃ではなく威嚇からというのが作法であろう。よくならず者国家から攻撃された時のために警察的な力が必要だろうという仮定をするものがいるが、それを認めた上でさえ威嚇もせず攻撃し撃墜可能な武器は不要だ。そもそも制圧能力が高いからといって警察官に南部ではなくクルツを持たせるべきだなんて言うのはよほどのガイキチかマニアだけだろう。(あ、同義反復)
またF22でないと対抗できないような腰を据えた戦力による侵略を想定した場合、食料自給率が50%も満たない日本は1週間もまともに戦えないだろう。そういった点から見てもこんな機体に税金をつぎ込むのは現実的ではない。
F22を所有することは単に近隣諸国に「日本が他国を攻撃可能だ」というメッセージを発信することと同義だ。そして、それは平和国家としての建前もかなぐり捨てるということだ。

おまけにステルス性、高機動性をバックアップするためのシステムのインフラはガッチリ米国が握るだろうし、自分なら日本に対して提供するシステムには絶対にバックドアを作りこむ。マイクロソフト社がOSにバックドアを作りこんでいるように。

F22は設計上、単独で運用可能な代物とはとても思えないのだ。F22を手に入れるということは日本は米国と運命共同体、あるいは属州になるという覚悟が必要なのだ。そこまで米国にべったりしてどうする?

もし、どうしても主力戦闘機を選定するならヨーロッパで共同開発されたタイフーンとか仏のラファールあたりが運用上の小回りも利いてなおかつ日米運命共同体の危険性の少ない。そんな機体を選ぶのもアリなんじゃないだろうか?個人的にはフランカー系列が好きだが、自分の趣味はどうでもいいか・・・。

以上が自分のF22導入に対する見解である。まともな知性を持った正気の民主国家であればF22は必要ないと言うべきである。はっきり、F22はならず者国家にのみふさわしい機体なのだ。

P.S.

ついでに平和憲法についての見解もメモしておく。
日本が憲法9条を改正した場合、米国は日本に対するオプションが2つ増えると考えている。一つは今後の米国によるテロ活動への資金負担と人的、その他のリソース提供を日本に行わせることが可能になるということ。そして、もうひとつは郵政民営化後、米国による金融搾取が完了すれば後腐れなく「テロ支援国家」認定していくらでも始末ができるということ。いや、動機などどうでもいい。今後、攻撃するためにいくらでも口実をつけられるということだ、アラブ諸国がそうであったように。
同時に、日本は国際社会における有形無形のアドバンテージを全て失うと考えていいだろう。真に丸裸にされるということなのだ。
パラノイア的かもしれないが、可能なオプションは考慮しておくべきだろう。
自称現実主義者とは真逆の結論かもしれない。しかし自分はそのように考えている。


ポテトチップチョコを食べてみたが・・・
先日、北海道出張に行った同僚がロイズのポテトチップチョコをお土産に買ってきてくれたのだが・・・。

ポテトチップにチョコレートがかけてあるその怪しげな姿といい、おまけにチョコが溶けかけていたのがヴィジュアル的に思いっきりアウトであった。

実際に口に放り込んできたところ、ポテトチップの塩味とチョコレートの甘さがお互い勝手に主張しあって調和するわけでもなく、さりとてあからさまな不協和音を奏でるわけでもなく。要は脳が舌からの情報を処理しきれずにパニックを起こしているような状態だったのである。マクビティ・ダイジェスティブ・ビスケット全粒粉チョコレートが一番近いという指摘をどこかで見かけたが、そういえなくもないが、さりとてそれで納得できるような代物ではなかった。旨いとも不味いとも断じがたいその味わい。スティービー・サラスがブーティー・コリンズと組んだサード・アイというバンドのサウンドが一番近いイメージだと言ってわかってもらえるだろうか?(わかるわけないか・・・)

その後の追跡調査により世の中は広いということを思い知らされてしまった。というのも、いかチョコとか柿の種チョコなどチャレンジャー精神をくすぐるものが他にも在るというのだ。いかチョコにいたってはハワイアンいかチョコなる存在もあるのだ。話のネタとしてはアリかもしれんが・・・ううむ。

「郵政民営化法案の凍結」騒ぐなら今
喜八様が「郵政民営化法案の凍結」を訴えるトラックバック・センターを設けられました。
趣旨に賛同いたします。まずはリンク先を見てください。

今、この場で自分が中途半端なサマリーするよりはまずここでTBされている記事を読んでください。
しょ~じき言って、最近のオフラインのメディアをにぎわせていることごとくは郵政民営化に注意がいかないように操作されているようにしか見えません。郵政民営化は今現在メディアでとりあげられているテロ特措法、年金の問題よりはるかに重要度が高く、将来的には米国の一部富裕層に搾取されるだけで禍根を残す問題だと思われます。

騒ぐなら今しかないと思います。



全ての馬鹿パッケージにつきあう必要はないのだ
つらつら報道ステーションを見ていたら昨日から話題の国連決議の「無料ガソリンスタンドありがと。これからもよろしくねっ。」がシレっと流れていた。昨日はなんかのギャグぐらいに思っていたがメディア側(というより米国追従主義な連中)は本気で「ほら国際社会からこんなに感謝されてます」なんて路線で自民党を持ち上げようとするキナ臭い雰囲気がプンスカしておる。このニュースの後にイラク虐殺戦争給油隊な無料ガススタンドの実態について特集が組まれていたが、論点はボケ気味でいまいちで歯切れが悪い。自民党のメディア攻勢に対する小沢民主党の対応の遅さ、鈍さがちょっと気になる。
この対応の悪さで民主党が将来的にも駄目駄目だと言うつもりはない。しかし、も少しなんとかしてほしい。もはや自民党は現実的な選択肢ではありえないのだ。

(9/20)、経団連の御手洗会長が基礎年金を全て税金で賄うみたいなことを口走っていた。この発言見てると、今の自民党なら現実的な選択肢として現在の年金関連民主党案をそのまま受け入れるんじゃないかと恐れている。というのも、年金問題の解決を撒き餌に郵政民営化から目を逸らしている間に郵政民営化を既成事実化することが米国パシリ派の最重要課題なのではないかと疑っているからだ。しかも、基礎年金の財源を税金にすることで消費税増税の口実もできてしまうというおまけつき、う~む。

先の無料ガススタンドの件の自民党のあまりに稚拙な立ち回りといい、自民党総裁選の馬鹿騒ぎといい、これだけ阿呆なパッケージがマスコミを通じて流されると受け取る側も飽和状態で注意していても,つい本質を見落としがちである。
あまりに阿呆なパッケージが流れるとつい食いついてしまう。そしてテンションを上げてしまう。しかし、少し引いてみて冷静になってみる必要があると思う。全ての馬鹿パッケージにいちいちつきあう必要はないのだから。

*

どーでもいいけど先日、福田氏と麻生氏がTVで「北朝鮮への圧力は北朝鮮を六カ国協議のテーブルにつかせることに成功した」とか、それが強い外交の成果みたいな印象操作が行われておった。そもそも核施設の停止などは米朝協議の成果であって、決して安倍政権下における圧力外交の結果ではないと思う。すご~く思う。

あと、NECのCMで「WindowsVistaがサクサク動くデュアルコアプロセッサー」なんてほざいていたけれど、これってVistaは重いというネガティブキャンペーンなんじゃないかと心配してしまった。大丈夫か、NEC?
ちょいとバブラーズについてふれておきたい
いきなりなのだがジャケットのダンエレクトロのロングホーンを抱えた冴えない黒ぶち眼鏡のおっさんを中心にしたもっさりしたメンバ写真に、つい惹かれて手にしてしまったザ・バブラーズの”Like the First Time”。
実は野郎バンドというとCruciFictionのような露骨な美形メンバやH.I.MのValoのような耽美的ビジュアルなルックスが好きなんです。bauhaus聴いて以来そこは譲れなかったんです、最初は・・・。しかし、人生色々、会社も色々・・・いや違う。人間、年喰って人とのつきあいで色々聴いてると、ちょっとゲテものにも手を出したくなるんです、だからPIXIESもデューク・ロビラードも・・・いや、これも違う。ま、いいか。

要は98年にリリースされたフィンランドの著名シンガーソングライター、アルト・タネミンとヤンネ・ハーヴィストのバンドの1stアルバムである。日本生命のCMソング”You Are the One For Me”も収録されているようだが、98年当時のCMなどろくすっぽチェックしとらんかったから、今更そうだと言われても「あ~そ~へ~ふ~ん」としか言えん。

しかし、無茶苦茶優秀なポップアルバムである。60年代~90年代までのポップソングのいいとこどりという評価も納得できる内容である。自分的には優秀なバブルガムポップといえばジェリーフィッシュ、ワンダーミンツ、マイク・ケネリーとほざいてしまう人間なので捻り度、偏執狂の度合いはいまいちかなア・・・とは思う。ただ、アルトの製作意図からすればそういった偏屈なポップ至上主義的な見方は余計なのだろう。なぜなら、きっぱり「ナンセンス抜き、ダウンツーアースなアティテュードでラフにプレイされたアルトの完璧に美しいポップソング」とヤンネが言い切っているからだ。普通にいいポップソングをかけっぱなしにしときたい時には聴きたいアルバムだし、アルバム全体に目配りの利いたバランスがグーである。


そういえば、最近のNHKではよくブーラドリーズの”WakeUp,Boo!”を聴くよなア・・・・。

国の国民に対する恫喝を受容するメディアと政治家がヲタクなことに言及することの違和感
そういえば、安倍氏辞任後、民意が自民党に対してNOを突きつけたはずなのにオフラインの世界では参院選で何が起こったのかすっかり忘れ去られておる。

一見自民党総裁選でのほほんとしているようだが、水面下では意外とめまぐるしい。

「村野瀬玲奈の秘書課広報室」のエントリ「与党の、与党による、与党のための政治と、財界の、財界による、財界のための経済への批判的視点を新たにしよう」で福田氏が小泉政権下で白昼堂々と「国家が国民に対して恫喝を行う」ようになったことを思い出してしまった。「国の方針に与しない連中をなんで国が助けにゃならんの?」みたいな感じで露骨に不快そうな顔をしていたのが印象的な福田氏だった。そういった国の恫喝のサインをまるで正論がごとくオフラインのメディアが受容していたことに当時も無茶苦茶違和感があったし、流行の自己責任という言葉も実は政府本来の責任放棄以外の何者でもないと思っておる。
今回の安倍氏の辞任以降の騒ぎも露骨な印象操作が行われておる。実はAbEndが達成されてしまったこと以上にその後の自Endの方がはるかに重要なのだろう。これから半年間の政治の動きは過去1年間以上に注視していないとかなりヤバいと思う今日このごろである。

「お玉おばさんでもわかる政治の話」のエントリ「ありがとうは強要するモンじゃないぞ、恥ずかしい・・ 」、これってなんかのギャグかと思ったぞ!きっちし、国際社会における恥さらしと思うのだがどんなものなんだろう?

あと、どーでもいいことかもしれんが、麻生氏は自分はアキバ系とかヲタクの理解者面しているが、週間漫画誌をほとんど読んでると言っている時点で違和感ありまくり。コアなヲタクは週間漫画誌をチェックするのは当たり前、口に出せないディープな世界を網羅して初めて男の子。普通の感覚ならよほどの覚悟がないとカミングアウトできないものだというのが、学術的な分類によるところのヲタク第一世代の意見である。所詮サブカルチャーはサブカルチャー。エスタブリッシュされた連中に受容された時点で終わりだし、しかも頭の悪そうな政治家に持ち上げられて喜ぶコアなヲタクっていないと思うのだが・・・。


ちょっと、マイブームなライバッハ
最近、ライバッハの劇音楽「マクベス」がマイブームである。

ライバッハは80年代ユーゴスラヴィアを出自とするインダストリアルバンドで割と政治的な主張の強い出身のバンドのようである。話だけ聞いとると天皇問題が理由で来日を取りやめたとかビートルズの極悪カヴァー「レット・イット・ビー」をリリースしたりとか。要はかなり過激なイメージがつきまとい、憧憬をもって接すべきバンドだったのだ。

その過激なイメージを勝手に妄想膨らませて、実際に本作「マクベス」を入手したのだ。当時は思った以上にその表現が整理された印象を受けため、音楽的には信用できるけど今切迫感をもってして聴きたい音楽ではないとゆー栄誉ある脳内殿堂に放り込まれたままになっていたのだ。あとインスツルメンタル・アルバムだったのも一因だったかも知れないが。

しかし、聴き直している今日この頃。ナチスドイツを思わせる威圧的に構築された音世界が最近やたらと気持ちいい。考えてみたらマクベスの世界って「神々の黄昏」っぽい雰囲気で「第三帝国の興亡」を連想させるよなあ。とか「ドレスデン爆撃」なんて言葉がつい口をついて出てしまうSEとか個人的なツボつきまくりでいい。そういえばパゾリーニの「ソドムの市」もナチズムを背景に「セックスにおける政治力学」みたいなものがサブテーマにあったよな・・・とか。
この不穏な空気は個人的な共感を覚えるようなものでは決してない。しかし、個人の内面と無慈悲な世界が対峙する緊張感のあるこの音世界は自分自身の在りようを問いかけられているようで自分には逃げることができないのだ。

癖になるのではない。目を逸らすことができない・・・という恐怖が正直な感想なのかもしれない。

なんか、しばらくライバッハの予感。

リンボーマニアックスを聴いてる一方でこんなん聴いてます。きっと、これで社会人としてバランスをとることができるのかもしれん。なんか、どっち聴いていても駄目な大人のような気はするが・・・。
トイレが溢れている!
近所のレコファンをぶらついてたら、リンボーマニアックスの1st「Stinky Grooves」を見つけたのでつい買い直してしまった。

フィッシュ・ボーン、リビング・カラー、スティーヴィー・サラス等がミックスチャード・ロックとして紹介されていた90年代前半に同様の文脈で紹介されていたバンドである。

昔、売っ払っしまったのは知能指数低めというか、中坊のトイレの落書きみたいな歌詞があまりにアレだったので手許においておくのがこっぱずかしかったのだ。大体、「おれにはポルノが必要なんだ」とか「くっさいグルーヴ」なんてアルバムタイトルは自分が人並みの知性を持っていると思っている人間は普通手にしないだろう。

しかし、聴き直してみて思うのだ。年取って気恥ずかしいとか知性派気取ってみたいとかゆー衒いがなくなったからかもしれん。正直に言う。いい!

音はミックスチャーと呼ばれる連中の中で最もファンクしている。というよりジョージクリントン率いるファンカデリック連中直系の音じゃん、これ。ブーツイー・コリンズやらメイシオ・パーカーが参加しているからそう思うのかもしれんが・・・UFOはいないし、おむつはしてないがお馬鹿なノリ全開なこの世界ってどう聴いても、ヘビメタギターまでありありのファンクサウンドなのだ。ビル・ラズウェル・プロデュースのこの音はサイバーファンクなんて感じでかっこいい。でも、「トイレがつまって洪水だ!」なんて・・・。(しつこい!)

なんか、いつの間にかリンボーマニアックス自体はフェードアウトしちまった感がある。リアルタイムで聴いていた当時、恥ずかしがらずにもっとテンション上げて聴いておけばよかったと思う今日このごろである。

それにしても、このかっこよさ。タックヘッド並に評価されて然るべきと思うのだがなあ・・・。


ウ~ムと頭を抱えることが2件
いつもチェックしているとむ丸様のブログを見ていて、ウ~ムと頭を抱えることが2件。

1件目は「ゆうちょ銀行・かんぽ生命保険の怪しさをおさらい」というエントリ。
郵政民営化の問題を手際よくさらっているのだが、ここで紹介されているTrendReviewのエントリ「郵政民営化とは何だったのか?アメリカの思惑を法律から読む」が特に優れものであった。
郵政民営化がアメリカと日本の一部の人間のためだけに企てられていることは、今まで漠然と感じていた。その論理構成については自分の中で十分整理されていなかったのだが、それがもの凄くよく理解できるのだ。
つくづく、オフラインのメディアは自民党総裁選一色で郵政民営化については(ほぼ意図的だと思うが)ほとんど黙殺されているように見える。しかし、こちらの方が将来を見通したときにボディーブローのように効いてくるんじゃなかろか?

2件目は「国会はどうなっているの?」というエントリ。
その中で「安倍首相が、北朝鮮へ、制裁を強化した目的は、北朝鮮を徹底的に痛めつけて、日本国内でテロを起こさせることが目的だった」という話題が出てくる。う~む、外交って「対話と圧力」のはずなのに圧力のみかけまくっていたのが、全く理解できなかったのだ。しかし、こーゆー文脈で捉えてみると、陰謀論っぽいけど背後にある動機づけという意味では首尾一貫しているよなあ。

どちらのエントリからも読み取れるのは、やはり自民党って政権担当能力が全くないよねえというシグナルである。



内田善美とセピアカラーのノスタルジア
ここに早川FT文庫版のジャック・フィニイの「ゲイルズバーグの春を愛す」という本がある。古式ゆかしきゲイルズバーグを舞台にセピアカラーのノスタルジアに憑かれていく人々を描いた甘く切ない短編集だ。そんな本の表紙を飾っている端正なイラストを描いたのが内田善美である。

「りぼん」でデビューして以来、マニエリスティックな様式性と緻密な画風を作品を追う毎に深めていった作家だ。また、その作風は単に緻密な画風だけではなく、練り上げられたストーリーとネームと相俟って圧倒的な印象を残すのだ。

内田善美が「りぼん」をメインに作品を発表していた当時、一条ゆかりが内田善美を「セピアカラーのノスタルジア」と評していたことがあったが、まさにそのものである。作品を追う毎に緻密さを増し少女漫画表現としてはひとつの頂点ともいうべき作品を発表する。

「草迷宮・草空間」と「星の時計のLiddell」である。

前者は生きている市松人形”ねこ”を拾ってしまった大学生、草クンの日常を描く話。

普段見慣れた世界をねこの視線が再構築していく不思議さがなんともいえない。考えてみると「綿の国星」の第一話と通底するテーマなのだが、チビ猫の少女の姿があらかじめ与えられた装置として機能し、いつか猫の姿になってしまう不安感、刹那感が奪われたシリーズ作品としての「綿の国星」と比較すると「草空間」のクライマックスでの奇蹟の予感は圧倒的なのだ。

クライマックスの後、世界が変わる訳ではない。しかし、予感を抱きながら歩み続ける草クンの日常があまりに愛しい。

後者は内田版「愛の手紙」ともいうべき内田善美の描き続けてきたゲイルズバーグ・ストーリーの決定版である。

眠りの中で時空を飛び越えてしまうヒューと亡命漂泊者の友人ウラジミールの不思議なロードストーリー。ヒューは夜な夜ないつも同じヴィクトリアンハウスの夢を見る。そこで出会ったE.A.ポーを詠唱する少女を探す旅に出るのだが、その涯に見つけた幸福な時間。

現実逃避型幻想物語の究極の姿だと批判することは容易い。しかし、浪漫チックな雰囲気と現実崩壊の恐怖を体験しながら、故郷を見つけていく現実主義者のウラジミールが語り部として物語を進行していくので意外と抵抗なくラストを受け入れることができる。

この物語は故郷喪失者の自分探しの旅であり現代に生きる我々の普遍の物語なんじゃないかと思っている。

ちなみに作者のその後の消息は不明である。
熱狂的な読者としてはスターリング・ノースになったのだと思いたいところである。

趣味性の強い「白雪姫幻想」「ソムニウム」「聖パンプキンの呪文」などのムックも出ているが、漫画作品も含めた中でもイチ推しは「ソムニウム」である。

内田善美の物語感覚と絵を思いっきり堪能できる。
マックス・エルンストのコラージュ作品を人力でやったような感もあるが、意外なイメージをぶつけることでシュールレアリスティックなイメージを構築するのではなくオリジナルなイメージで不思議な世界を構築している。明確な形象を与えることで読者に想像の余地が少ないという意味で極めて通俗的ではあるが、繊細でノスタルジック、でもヘンな雰囲気を的確に醸し出していてうれしい。

と書きつらねてみたが、どれも入手困難。とんでもない値段がつけられていることもあるが、是非見つけて読んでみてください。

(*1)あと早川FT文庫からピエール・グリバリの「ピポ王子」のイラストも手がけております。これも大好きっす。文庫ではなくムックサイズの版型で再発してくれないだろうか?
新書館のアーサー・ラッカムなどの絵本並みの破壊力があると思うのだが・・・。


ゑひもせず
ふと杉浦日向子の「ゑひもせず」(ちくま文庫)を手にしてはまってしまった。江戸を舞台とした愛すべき小品というべき作品群は、知りもしない江戸の空気を確かな手応えで感じさせてくれるのだ。

箱入り娘の淡い恋心を描いた「袖もぎ様」、終わってしまった男女を点景する「もず」、通人気取りで吉原に繰り出す町人たちの「日々悠々」が特にいい。

杉浦日向子の初期作品ばかりなので練れてない部分も多々ある。しかし、描かれている風景の裏側にまで行き届いた想いがこれらを特別な作品にしている。他愛もないといえば他愛もない話ばかりだ。しかし、幸せな日常というものはこんなもので、気づかないうちに過ぎていくものなのだろう。

実は20ン年前に杉浦日向子の名前は「ぱふ」のレビューで見かけており「百日紅」の一部が鮮明に焼きついていたのだ。当時は象徴主義や審美主義を標榜していたので、ついぞ手にすることはなかった。しかし最近になってNAVI別冊の「助六」に触発され、そして店頭で出会ってしまったのだ。

「ニッポニア・ニッポン」、怪異譚「百物語」、古川柳をテーマにしたユーモアたっぷりの「風流江戸雀」、吉原を舞台にした様式性の強い「二つ枕」、葛飾北斎を主人公にした「百日紅」。立て続けに読んだのだが、どれも好きな作品ばかりだ。
しかし残る未読作品には当分手をつけないだろう。というのも杉浦日向子は既に江戸時代に旅立たれており、二度と新作を読むことはかなわないからだ。

未読の方は騙されたと思って手にしてほしい。これらの作品は江戸への時空を超えた通行手形なのだ。



「銀河赤道祭」は「たそがれに還る」だった
野阿梓の「銀河赤道祭」(ハヤカワSF)を買い直して再読する。

以前読んだ時はシェイクスピアのハムレットを創作行為のレベルで再創造した傑作「凶天使」の読了直後だっただけに、アレッ?"という印象だったのだ。再読してみて、本作と同じ主人公オージュール・パラジューデラが登場するデビュー作「花狩人」(ハヤカワSF)と座標がズレておらず、ヘンにBL系ラノベを意識したような以降の作品に比べて好感度は高い。ただ、構成的にあまりに混乱した印象で完成度の点では?である。

そういえば作者が「凶天使」を光瀬龍「百億の昼と千億の夜」(ハヤカワSF)を意識して著したようなことをどこかで言っておったので、もしかしたら、本作のビミョーな出来も「たそがれに還る」」(ハヤカワSF)と位置付けると納得できるかもしれん。

だからどうした...と言われると返す言葉もないのだが。


歴史修正主義者と造物主の掟
昨日、いきなり安倍首相があまりに無責任な辞意表明。

期間的に無理めなのに勝手に米国に口約束しといて、全部放り出して他人のせいにしたい雰囲気がプンスカする。今までもこの歴史修正主義者は国際的に恥知らずな発言や民主主義国家としてあるまじき行為を繰り返してきたわけだが、きっとこれらの事実も自分の中で都合よくローカル定義を適用して存在しなかったことにするのだろう。AbEnd系ブログをROMながら応援してきたつもりだったが、素直に喜べない状況である。

いつも読ませていただいているとむ丸様のエントリーで郵便局手数料の大幅アップの話が取り上げられておった。値上げとかサービス低下は予想していたけど、10月1日からいきなりやるとは思ってもいなかった。しかも、自宅に送りつけられてくるパンフには明確に書かれなかったので、不意打ちな気分。売国的郵政民営化の問題点は一般的に十分浸透していないので、こーゆーリアルな話題を普段からしていくことが重要なんじゃないかとつい思ってしまった。

家族団欒法案とか消費税、年金など問題はありありなのだ。しかし、今回の参院選の結果を見ていて投票で政治を変えることができるんじゃないかと思えたりして、リアルな政治の動きが面白くて仕方ない。実は今の日本は下手なドラマよりはるかにダイナミックな状況にいるんじゃないかと思ってしまった。気分は「V for Vendetta」である。

ふと歴史修正主義からの連想で思い出したのが、JPホーガンの「造物主の掟」(創元社)。

出版当時にリアルタイムで読んでいたら最悪の印象だったと思う。異星知性の生み出した自動機械が恒星規模の事故により、タイタンに不時着。システムが暴走して機械が構成する生態系を形成して中世文明を生み出すなんてあまりにベタなアイデアだと思うのだ。ところが丁度自分がマイケル・シャーマーの「なぜ人はニセ科学に騙されるのか?」(ハヤカワNF)を読んだり、自由主義史観なる歴史修正派の動きが政府中枢で活発化していたおりだっただけに怪しげな心霊術師が良心に基づいて活躍するストーリーがあまりにタイムリーだったのだ。

まあ、内容的にはホーガン節炸裂の屁理屈大馬鹿SFなのだが、主人公のインチキ心霊術師の動機付けが結構気に入っておるので好印象である。ただ知的な読書体験だったかと言われるとムグムグ・・・。


蕎麦連想
深夜にそばを食していて、いつの間に自分はうどん党から蕎麦党になっていたのだろうとふと疑問に思ってしまった。

子供の頃はそばは不味いものというイメージがあり、食べるならうどん(またはラーメン)と思っていた。多分、実家で食べさせられたそばが不味かっただけかもしれんが・・・。

ところがここ1~2年は専ら蕎麦である。そば粉があればテケトーに湯で溶いて蕎麦掻を肴に日本酒を飲むというようになっていたのだ。
(といいつつも今飲んでるのはストリチナヤであるが・・・)

杉浦日向子の「蕎麦屋で憩う」とか江戸ものを読んでいるうちに自分の中で「粋であるため」の条件に「そば切り」と「日本酒」がインプリンティングされてしまい、麺を食らうなら蕎麦であると勝手に思うようになってしまったからかもしれん。旨い蕎麦にこだわるつもりはまったくない。そんな食し方は蕎麦には似合わない。おやつ的に食らうのなら蕎麦がいい。とか日本酒の肴に蕎麦がいいとか、その程度のことである。かなり、適当だ・・・。しかし、粋は蕎麦である。

蕎麦の方がハードボイルドだという説もある。押井守監督「立ち食い師列伝」からの連想である。いや、これも正確ではない。TV版「うる星やつら」の立ち食い師の方が先であるし、ハードボイルドという意味では「紅い眼鏡」の方が正確な気分である。後ろめたい素性を隠して禁止された蕎麦をかっくらうのが正しい作法であろう。
当然、「卵が先で汁を後からかけてくれ・・・。う~ん、いい月だ」とひとくさり能書き垂れてからだ。

だから、なんだと言われても困るが、立ち食いそばはハードボイルドなのだ。どこぞの蕎麦屋が旨いと能書きたれるよりはスタイリッシュなのだ。


痩せ我慢する黒猫の物語
ここに「ブラックサッド-黒猫の男-」(早川書房)というコミックがある。

フランスのベストセラーらしい。詳しいことはよくわからない。絵を描いているのはディズニーで仕事をしていたこともあるという絵師。道理で巧いはずだ。

登場人物はすべて動物。「一皮剥けば誰もが動物。巧すぎる絵がそう語るのだ」・・・寺田克也のキャッチコピーがかっこよすぎる。しかし、そんなにドライな世界じゃない。ここにあるのは泣き虫でセンチメンタルな探偵の物語。

黒猫の探偵ブラックサッドが元恋人の死を追求していく。ただ、それだけのことだ。

だが傑作である。絵も巧いしスクリプトも文句のつけようがない。キャラクターが皆擬人化された動物として描かれたハードボイルド。統一したスタイルが醸し出す雰囲気が素晴らしい。

一冊50ページ足らず。しかし、読後感は映画一本観た印象。1700円は決して高くない。

もし、あなたがフィリップ・マーロウに少しでも心を動かされたことがあるのなら、手にとって見てほしい。これは痩せ我慢する泣き虫男がバーボン片手に読む本である。


SUEDEがどエラいバンドだった頃
実はSUEDEの1stシングルをリアルタイムで聴いた時にはピンとこなかった。

当時はナインインチネイルズのような殺伐としたインダストリアルメタルやデイジーチェインソーのような狂気じみた轟音の方にリアリティを感じていたからである。初期SUEDEは70年代グラムのアウトテイク集みたいな音だったのだ。D.ボウイの"スターマン"のデモテイクを基にリメイクした曲だと言われても納得してしまうような音なのだ。ピンとこなくても仕方ないだろう。

ところがある時、たまたま聴き直してみた。

ヌメっとした爬虫類系のブレット・アンダーソンのボーカルと肉感的なバーナード・バトラーのギターは繰り返し聴いているうちに麻薬的な魅力を発揮してくるのだった。ホモセクシャルを露悪趣味的に表現した歌詞といい、下品きわまりないボーカル、スミスを経由したような仄暗いメロディライン。オスカー・ワイルドの係累と言っても過言ではない審美主義的なセンス。今なら1stアルバムの”SUEDE”は傑作だと断言する。

そして2ndアルバムの"DogManStar"はその1stをさらに越えるどエライ傑作である、きっぱり。美しい方向にブーストしたバラードの名曲”StayTogether”を経由した後に発表されたこのアルバムは、M1の読経のようなサウンドからオーケストラをバックに堂々とバラードを歌い上げるラストまで一貫した美意識で構築されている。1st以上に毒々しくも美しい世界は前期SUEDEの到達点であった。

2ndレコーディング中にB.バトラーが脱退したという話を聞いた時、ビッグマウスなB.アンダーソンの我儘に職人気質のB.バトラーが付き合いきれなくなったからだ。音楽的、美学的なイニシアティブはすべてB.バトラーが握っていたと思っていた。少なくともロッキングオンでのB.バトラーの単独インタビューを読む限り、それ以外の解釈はありえなかったのだ。

しかし3rd"CommingUp"を聴いた時、その考えが揺らいだ。きっちり、2ndで魅力的だった毒々しくもポップなメロディラインが健在で、おまけにキーボードを導入しどちらかといえばチープなギターサウンドをバックにしてさえ・・・である。

しかもB.バトラーのソロ"people move on"を聴いたら、出来については文句はないのだが、華がない。なんつーか思いっきり毒消ししちまったような印象の音なのだ。これ聴いちまうと、確かに初期SUEDEは音楽的イニシアティブはB.バトラーが握っていたのだろうけれど、B.アンダーソンの毒が入って丁度よかったんじゃないやろかと思ってしまったのだ。きっと、こつこつ音を構築している印象でスティーブ・ヴァイみたく脳内物質が耳から垂れてるようなタイプでなかった点も印象を地味にしていたのかもしれない。初期SUEDEに何を期待していたかによって思いっきり評価の分かれるアルバムだと思った。

3rd以降のSUEDEには興味が持てずにいた。そうこうしているうち21世紀を迎える前にSUEDEはいつの間にか解散していたのだ。

21世紀になってからB.アンダーソン、B.バトラーが仲直りしたのかTearsというバンドでアルバムをリリースした。初期SUEDEの復活と当然期待するであろう。一部では初期のSUEDEが10年近くの歳月を経て進化した方向という評価もある。しかし、B.アンダーソンの毒々しいポップ感は後退しており、初期SUEDEにキチンと決着をつけようとしたB.アンダーソンの漢気という感触の方が強く、実は初期SUEDEとはあまりにも遠い地平で演じられたアルバムという気がしてならなかった。もちろん音楽的には二人のSUEDE以降のキャリアをいい形で結実させたアルバムだというのが模範的な評価だろう。

しかし、自分は単にいいアルバムを聴きたかったのではなかったのだ。

おまけに、このアルバムで本当にエゴが強烈だったのがB.アンダーソンだったのかB.バトラーだったのか、正直わからなくなっていた。あまりにB.アンダーソンの態度が生真面目過ぎたのだ。そんなことも、今となってはどうでもいいことなのだ。

結論から言えば初期SUEDEはあの時期のB.アンダーソン、B.バトラーによる奇蹟的なコラボレーションだったのだと思う。少なくとも自分にとって、どえらい傑作だったと言えるのはSUEDEの1st~2ndの間にリリースされた曲だったのだから。


未だにOVA「戦闘妖精雪風」を正視できない理由
未だにOVA「戦闘妖精雪風」を正視できないでいる。

SWビッグバンの翌年、自分はSFマガジンを読むようになった。初めて手にしたSFマガジンのSFコンテストで二人の作家がデビューした。野阿梓と神林長平である。そして何ヵ月後に神林長平の「妖精が舞う」と出会った。

当時はその作品は完結しており戦闘機小説というよりも独自の味わいを持つディック的な作風だという感想を持ったのだ。しかし、「騎士の価値を問うな」を皮切りにシリーズものとしての構成をとり、ジャムという正体不明の存在が実在として姿を見せ始めた全体像は「戦闘妖精雪風」としていったん完結する。

自分の中では戦闘妖精雪風の世界は二つ存在している。
一つは異星知性体ジャムとの戦闘自体が存在しているのかも不安になる奇妙な世界を持つ「妖精が舞う」という作品。もう一つはジャムとのファーストコンタクトと人類が兵器として使用している機械知性とのコミュニケーションが多層的にテーマ化されたシリーズ作品。自分にとっては「妖精が舞う」「妖精が舞う空」は明かに別作品なのである。

「戦闘妖精雪風」が完結した時点で執筆されていたらは絶対に許せなかったであろう「グッドラック」。社会人になって望みもしない人間とのコミュニケーションをいやおうなく経験することで「関係性の再構成」、他者とのコミュニケーションの物語として素直に認めることができるようになっていた。おまけに「グッドラック」のクライマックスは絶望的な状況ではあるがハッピーエンドという自分の大好きなパターンだったりするのだ。(*1)

要は自分がSF者であることを意識した頃から付き合っている作品なのでかなりこだわりがあるシリーズだ。作者にとっては迷惑かもしれないが自分の読んだ順番、読んだ場所、記憶も含めて脳内でパラレルな作品世界が出来上がってしまっているのだ。

とはいうもの他人の視覚化の解釈にはかなり寛容っつーか結構平気だったりする。横山宏のロシアっぽい雪風でも他のイラストレーターのぜってえ飛びそうもねえぞ・・・なんつーヘンチクリンな雪風でも全然OKだったりする。

しかし、GONZO版「雪風」だけは???なのである。

ヘンに構成を捻って工夫しているようなのだが、ことごとく勘違いしているようにしか思えない。誰かさんが自分の作家性で解釈した雪風を見たかった訳じゃないのだ。シリーズ構成を全然いじらずに脚本を起こしてくれればよかったのだ。OVAで「戦闘妖精雪風」を一話完結のシリーズで、劇場版で「グッドラック」なんて構成をしてくれるだけでもよかったのだ。多田由美のような作家性がプンスカするキャラデザインなど邪魔なのだ。極端な言い方をすれば特徴のない無名の人がやったキャラ、メカデザインで構わなかったのだ。

そもそも神林長平の作品の映像化には作家性なんて必要ないと思うのだ。単に小説というOSから映像というOSにポーティングするだけでよかったのだ。技術系の手つきで機械的に映像化してほしかったのだ。だから、その感覚のズレがもどかしい。

GONZO版「雪風」は4巻まで見たのだが、5巻が怖くて見れないでいる。完結を正視できない。唯一評価できるのが雪風(メイブ)の異様ではあるが納得できるデザインという点だけである。だけどなア・・・。

(*1)「ガメラ3」,横田順弥「小惑星遊侠伝」のラストもこれだよなあ・・・。


ダニエル・ダックスとカンブリア期
ダニエル・ダックスのライブDVD「Bad Miss M live」を観た。

ダニエル・ダックスのディスコグラフィーを俯瞰できる選曲でアバンギャルドとポップのさじ加減が絶妙な世界を堪能できる極めて優れたソフトである。
80年代のチープに実験クン音楽を垂れ流していたアングラ世界のポストパンクの空気がいかなるものだったのか温故知新で確認したい最近のリスナーは要チェックである!

と儀礼的に書いてみたもの、本当はこーゆー表現ではまるで追いつかない世界が眼前に展開しているのだ。
なんつーかアングラアートが所謂音楽を解体、再構築している現場をポップミュージックとしてそのヘンのジャリたれが普通に受容しているのだ。どう考えても異常だし、その異常な状況が平然と受け入れられたのが80年代のポストパンクという状況だったのだと思う。(*1)

中近東風からサイケデリック、よくわからんつぶやきクンまでのゴッタ煮。おまけにアーティストの自己満足を延々と聴かされるようなことは一切なし。っもう大好きである。

(*1)80年代のポストパンクはムーブメントとしてのまとまりを持たなかったのは事実だと思う。しかし、カンブリア期のような種の爆発があり、意識するとしないとに関わらず多様化を見せていったのがポストパンク期だったという説が一番正しいような気がする。
ちなみにスクリーミング・マッド・ジョージが自著「変態」で分析している「ポストパンクは近代美術史を一瞬にして追体験した」という説も捨てがたいのであるが・・・。

粋だねえなんて言われたい
昨年末にNAVI別冊の「助六」という雑誌を手にしてから着物を着てみたいとずっと思っていたのだ。もちろん、「助六」を目にする前から心の奥底で着てみたいという気持ちはあったのだ。それが特集「粋だねえなんて言われたい」なんて組まれた日には、ずずっんと海底に沈んでいたタイタニック号が浮上するがごとく、意識の表層に浮上してきてしまったのだ。(*1)

しかし、身長182cm、体重58kgという体型は着物を着てみようという時に恐ろしくハードルが高かったりする。
そもそも着物は高い。少しでも安く入手しようと古着を探そうにも、気に入った柄を探すだけでも一苦労なのに、程度のいいものは少ない。おまけに体型がネックで、古着屋やらフリマなどで程度のいい安いものを見つけたとしても「あ、無理!」と売り子に言われたことも一度ならず。だから、着物に対して鬱屈した想いがあったりするわけだ、無茶苦茶。

でもって、遂に奥さんが浴衣を作ってくれたので、念願の着物を着ることができたのだ。下関の花火大会までに角帯が見つからなかったので義父さんのやつを借りたのだが。

とりあえず、自分の着物があるというだけでも気分は全然違うっす。試してみる価値はあると思う、ふっふっふ。

後に店頭で市販の着物の寸法を確認したのだが、”175cm越えたら着物は着るな!”と言ってるようなサイズ設定ってどうかと思うぞ、ふんとに・・・。

(*1)NAVI別冊の「助六」って和ものをテーマにした男の美意識雑誌って感じで 結構グーっす。最近の号はなんとなく有名タレントのグラビアが減った分、普通のグッズ系雑誌っぽくなった気がする。
最近になって池波正太郎やら杉浦日向子にはまった原因も実はこの「助六」だったりする。

マリリンマンソンは支持政党である!
まず、勘違いされないように言っておくがマリリン・マンソンは好きだ。しかし、常にしこりのようなビミョーな違和感がある。

2ndのカバー中心の"smell like children"を聴のいたときは、はったり効かせたSEが強めのショックロックというイメージだった。
醜く冴えないいじめられっこがロックスターへ羽化するという物語構造を持った次作 ”AntiChristSuperstar”はD.ボウイの「ジギースターダスト」だったと言ってもいいのかもしれない・・・悪意たっぷりの。

その後、バッシングを受け始めた頃からMMの音楽的強度は強烈になっていったような気がする。なんつーか保守的で蒙昧な米国的なもの。はっきり行ってブッシュ政権に代表されるネオコン的なものを仮想敵に想定したあたりから・・・。自分の敵か味方かを峻別するようなリスナーに対する姿勢。イラクを仮想敵とするブッシュの政治的手法の鏡像関係にあるといってもいいだろう。

MMの音楽は仮想的を攻撃する目的で構築されたものとして完璧な出来だと思う。所謂良識派を気取る蒙昧な多数派に対し、神経を逆なでするような言葉の選び方、サウンドストラクション。そしてへルンバインやシジスモンディを起用するビジュアル戦略。その判断の正確さにはアーティストというよりもエディトリアルなセンスを強烈に感じてしまうのだ。

MMの音楽雑誌のエディター経験がある事実から連想した訳ではない。
戦略面が緻密かつ正確であるが故にあまり混沌としたものが感じられないのだ。そもそも自分がアーティスティックなものとして期待しているものが、言語化されてない混沌とかノイズ寸前まで解体されたサウンドストラクションなのだ、もちろんそれだけではないが。要は、そこに意味や脈絡を見出すかどうかは聴き手の感性であり、聴き手の中で世界が拡がるような音楽を期待しているのだ。そんな自分には、MMの正確無比なセンスで構築された音楽はあまりにプラグマティックで違和感が残るのだ。

音楽的には好きだしリスナーとしては共通の仮想敵が存在する限りMMを支持するしかない。しかし、自分にとってMMはそれ以上でもそれ以下でもない。それは自分と世界の関係性の中で、意識して選択する支持政党みたいなものなのだ。自分にとってのMMへの信頼感は政治力学にも似たものであって生理的な直感ではない。

だから常に違和感を感じるのかもしれない。

クロウという名の死者の書
主役のブランドン・リーが撮影中の事故で死んだことでも記憶される映画「クロウー飛翔伝説ー」を知っておられるだろうか?

「ダークシティ」のアレックス・プロヤスが監督しておる点、キュアーやらナイン・インチ・ネイルズがサントラに参加しておるという点でもゴシック・ノアールな雰囲気をプンスカさせた映像に仕上がっていたことはゆーまでもない。ヘンにつじつま合わせ的・・・とゆーか説明的な感じがあったのが残念であった。しかし幻想系というよりはオルタナっぽい感覚が横溢する、ロバート・スミスみたいなカルトヒーローが活躍するダークヒーロー映画というだけでも十分魅力的だったのだ。

しかし、ここで言いたいのはこの映画ではない。ジェイムズ・オバーによる原作コミックの方である。

実は映画においてキュアーやらジョイ・ディヴィジョンやらの楽曲をセレクトしたセンスというものが監督のものだと思い込んでいた。しかしキネ旬社から邦訳が出ているこのコミックを読んで吃驚したのだ。

まず、この物語がコンクリートジャングルな都市の中で緩慢な死を迎える死者の物語であること。死に行く病んだ魂の彷徨なのだ。とてもじゃないが復讐のために蘇ったダークヒーローの物語とは読めなかった。(*1)

そして、キュアーの””hanging garden”、ジョイ・ディヴィジョンの”decade””komakine”の引用、アルトウール・ランボーからの引用が幕間毎になされており、これが緩慢な死を迎えようとする魂のモノローグとして効果的に機能しておったのだ。

確かに絵柄はとてもこなれておらず、どちらかと言えば雑な部類かもしれない。スクリプトも読者を意識して組み立ているような読み易さは微塵も感じられない。しかし、そんな技術的な出来不出来は瑣末なことなのだ。

はっきり言おう。
視覚化されたゴシックロックそのものを読んでしまった。
それが自分にとっての「クロウ」だ。

理解してくれとは言わない。この物語はただ胸が痛いのだ・・・。


(*1)この構成、ジム・ジャームッシュの「デッドマン」と共通するものを感じてしかたない。もし、ジェイムズ・オバーによる「クロウ」の方を「デッドマン」より先に読んでいたら、素直に「デッドマン」に惑溺しなかったかもしれん。

V for Vendetta または V for Vote
マスメディアを利用する独裁者が専制する警察国家と化した大英帝国。
どこにでもいそうなナタリー・ポートマン演じる女主人公が、Vと名乗るテロリストによって革命に巻き込まれていく。

おまけにアラン・ムーアのコミックが原作で・・・など書くとスーパーヒーロー然としたVというテロリストが革命の士となった主人公とともに革命を率いていくみたいなストーリーと思われかねない。

なにしろ製作があのマトリックスシリーズを作ったチーム。テクニカルタームや思わせぶりの伏線とキーワードをてんこ盛りにした挙句、1作目には存在した現実崩壊の不安感に満ちた空気を完膚なきまでにぶち壊してくれた連中だ。はっきり言えば期待してなかった。

結論から言えば大傑作である。ハッタリの多い映像は抑え気味で革命とは何なのか?というテーマにおいて脚本がキッチリ練られているのだ。超人的な革命集団により悪政を強いる政府を倒し新体制を作り上げるなんて物語は、このご時世にリアリティがあるわけない。

ふと、この映画を見て頭に浮かんだジャーナリストがいる。カレル・ヴァン・ウォルフレンである。在日ン十年のオランダ人ジャーナリストだが「日本の権力構造」「人間を不幸にする日本というシステム」等の著作で日本人が識閾下に抱え込んでいる権力構造を抉り出しているのだ。同じことを日本人が指摘できないのが暗澹とした気分になる。しかし、「人間を不幸にする日本というシステム」の最後に希望を見出すことができるのだ。この映画はその希望の姿に重なるように感じたのだ。そして、いま現在がんばっている政治系ブロガー達(それも女性)の姿も・・・。

話を戻そう。

Vが投げた小石が波紋を拡げるように大きなうねりとなって革命が達成されるラストシーン。Vを執拗に追い詰めようとするうちに世界の真実の姿に気付く警部にむかって語りかける女主人公の台詞が文句なしにいい。

仮面の主人公というアイデアも「誰もがVである」というテーマに効果的に機能しており、革命は一人一人の意識の変革の中にしかありえないのだということを映像に定着させた点で素晴らしい映画だと言わざるをえないのだ。

アニメ版「キャプテンフューチャー」は本当に駄作だったのか?
殿ご乱心とゆーノリで製作されてしまったNHKアニメ「キャプテンフューチャー」といえばあの宮崎駿の傑作「未来少年コナン」の後番なだけに駄作という評価が定説であると思う。というよりもその存在すらキッパリ忘れ去られているっつーのが現実であろう。

しかし、そこまで無視されるにはあまりに惜しい。

確かに原作の設定のままでは、あまりに夢もチボーもない太陽系の姿に晒されてしまったすれっからしの70年代後半の視聴者にはキツかったであろう。元の太陽系の設定を中途半端に銀河系まで拡げてしまってシリーズ後半の設定が破綻して死を招いてしまったとか、何を勘違いしてやってしまったのか意味不明のディスカバリーもどきのコメット号と・・・、アナクロな原作をバカ正直に正面突破しようとして玉砕したような弛緩しきった脚本とか・・・、やっぱり、ジョオン・ランドールはもっとバタ臭いヤンキーギャルなキャラ設定にすべきだろうとか・・・いやいやキャラ設定は水野良太郎のイラストのままでもよかったんじゃないかとかツッコみどころは山ほどある。

しかしリアルタイムのファンは心にモザイクかけつつも熱く燃え滾って見ておったのだ。

そもそも原作がありがたがって読むような大層な作品かあ?
きっぱり知性の入り込む余地などブーバス・ウームからふんだくった火星の秘宝にパワー・オブ・テンした極小宇宙においてさえ存在しないのだ。あーゆーのはボンクラが熱く読めばいい世界であって、ぐっとくる掴みさえあればオールOK、イージーゴーイング・マイウェイ、ゴーゴー・イングウェイなのだ!

ではリアルタイムに見ていた一ファンが一体何にぐっときたのか?
オープニング、エンディング主題歌、BGM、そして挿入歌にぐっときたのだ!
「キャプテンフューチャー オリジナルサウンドトラック 完全盤」を入手した今なら断言できる。

このアルバム、Disc1はカスである。いや、違った。Disc2が優れものでオープニングの3バージョンが収録されており、あのBGM,このBGMと覚えているBGMが覚えているフォーマットで聴くことができ、おまけにラストが「ポプラ通りの家(TVサイズ)」というボンクラのツボ突きまくりの完璧、鉄壁な構成。
惜しむらくは「謎の宇宙船強奪団」でグラッグがガナっていた「おいらは淋しいスペースマン」が収録されてなかった点である。

音楽的には電子音ピロピロな70年代ディスコ風味。MECOのスターウォーズ並に思いっきし風化しとります。時の流れは無常。「はてしなき流れの果てに」「百億の昼と千億の夜」でございます。

しかし、いいんだよこれが!

アニメ版キャプテン・フューチャーに燃えてしまったという記憶をトータルリコール社でなかったことにしたい諸兄も、これ聴いて熱く燃え上がってほしい!


「宇宙英雄物語」が清算したもの
時は未来、ところは宇宙。光すら歪む果てしない宇宙の海へ。
愛機コメットを駆るその男・・・

と言えば殿ご乱心とゆーノリで製作されてしまったNHKアニメ「キャプテンフューチャー」のオープニングである。
しかし明らかにこの世界に触発されてスペオペ、ファンタジー、アニメ、RPGの一切合切をパロディにして笑い飛ばす一方で愛情を隠そうとしない愉快痛快な空想科学傑作漫画があったのだ。

伊東岳彦の「宇宙英雄物語」がそれである。出だしこそSFファンによるスペオペ風味の学園ギャグ漫画なのだが、”もうひとつの太陽系”に舞台を移してからがもー大変!「SF英雄群像」に出てくるあの人、この人、SFクリシェのあの設定、この設定がイジられまくって登場!スカイラークにゴートやら、既視感ありまくりの設定の使い方に見てきたもの、読んできたものが一緒なんだろうなとゆー親近感が感じられるのだ。(*1)
(大体、星詠号のデッドコピー(?)紅竜号が黒いアニメ版コメット号なんてのはあまりにナイスっす。)

ご本人に言わせたら全然的外れな感想かもしれない。この作者、自分の中でやってみたかったもの、影響を受けたものを総ざらえしてオリジナルな世界を構築する上で自分の中で決着をつけたかったんじゃないかと思えて仕方がない。だからこそあのラストだと思っておるのだ。

っつーことで完全オリジナルな展開の「OUTLAWSTAR」の漫画の方はどうなってるんでしょうか?一読者として怒ってます!

もしかしたらラノベしか読まない人には共感してもらえない世界かもしれない。しかし、求道的なSF者には避けては通れぬ道だと思う、真剣に!


「お祖母ちゃんと宇宙海賊」そして野田昌弘
スペオペアンソロジー「お祖母ちゃんと宇宙海賊」(早川SF文庫)で業界標準が恐ろしくくだらないことを思い知らされたと以前書いた。

しかしあのアンソロジーの中の表題作「お祖母ちゃんと宇宙海賊」だけは別格で無茶苦茶大好きなのだ。
とゆーのも孫が何人もいるおチビなお祖母ちゃんが宇宙海賊と宇宙パトロールを手玉にとって乱暴狼藉、悪逆非道の限りを尽くす(?)というチャーミングな展開があまりにラブリーでプリチーなのだ。
どのくらいラブリーかは是非読んでいただくしかない。他の作品はカス。断言する。

個人的にはこのチャーミングなDNAは野田昌弘の銀河乞食軍団シリーズ(早川SF文庫)に由緒正しく受け継がれていると思っている。それもお七とネンネが活躍する外伝の方が特に色濃く。んでもってノベライズ版「宇宙からのメッセージ」(角川文庫)も傑作だと信じておる!(映画は観んでよろしいと言われているで未見)

これも野田昌弘のスペオペ解説本「SF英雄群像」でインプリンティングされてしまった結果なのだろう。実際のスペオペと呼ばれる作品の多くはカスだったと思う。しかし、野田昌弘のフィルターを通して日本人向けに紹介されたスペオペはあまりにチャーミングだったのだ。

中坊の頃の自分にも明かに知能指数低めなスペオペは、キッチュだったりキャンプ趣味という口実でもつけない限り、とてもじゃないが手を出す気になる代物ではなかったのだ。
だから野田昌弘というフィルターがなければきっと自分はスペオペというジャンルを読むことはなかっただろう。そしてSWビッグバンのあの夏にSFファンになった人間はほぼ同様の体験をしたんじゃないだろうかと考えている。

というのも・・・。


「銀河遊撃隊」とスペオペへの愛情
ハリイ・ハリスンの「銀河遊撃隊」(早川SF文庫)を入手した時の感想である。いわゆるスペオペのパロディ。ひっさびっさに読み直しても文句なしに面白かったのだ。

クリシェをこれでもかと繰り出しその馬鹿さ加減を笑い飛ばす一方、原典に対する並々ならぬ愛情が感じられるので文句なしの傑作に仕上がっておる。アイデアの総量と展開の早さが圧倒的なのだ。
なんといっても丸太小屋で瞬間移送装置が発明される発端から宇宙征服をたくらむ超知性の大艦隊を超兵器で食い止めるクライマックスまで、たかだか200数十頁で無理なく展開して、笑えるというおまけまでついちゃったりなんかして、もー大変。
出てくる宇宙人は皆英語を喋るわ、リングワールドは出てくるわ、メンターは出てくるわ、時空を飛び越えビッグバンまで遡っちまうわ。
「銀河ヒッチハイカーズガイド」が映画化されちまうこのご時世。誰か、映画化せんのだろうか?

こーやってみると所謂ワイドスクリーンバロックに限らずE.ハミルトンとかE.E.スミスなんかも矢継ぎ早にアイデアを繰り出すことによって、ある種幻惑的な雰囲気を作り出していたんじゃないかと思う。だから時代に埋もれていくバカSF作家って、そのあたりを理解してないのだろう。そもそものネタがアレなのにヘンに賢そうに作ろうとしたりとか、バカSFだからイージーに作っても大丈夫と読者をなめてたりとか、あるいはその両方とか...。

はたして、スペオペ標準が面白かったかと言えばアンソロジー「お祖母ちゃんと宇宙海賊」を読んだ時に嫌とゆーほどつまんねーことを思い知らされたのだが・・・。


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