AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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う~ん、おらあゴスでなくてもいいや
村野瀬様のコメント欄でルイ・アラゴンに反応したのが意外に思われたようだった。で、ポップカルチャーとしての「ゴス」というキーワードが一般的にどのように受容されているのか?ふと悩んでしまったのだ。

要は最近、流通している「ゴス」というものは80年代初頭からゴシックなるものと付き合ってきたつもりの自分の認識しているものとは全く異なるものなんじゃないかという素朴な疑問である。本当はゴシック・ロリータなるものが出現したあたりで既に割り切って然るべきだったのかもしれない。

レッテル貼り自体は決して好きじゃない。しかし、世間的に流通しているレッテルを使用するのは一々説明するのが不要で手っ取り早かったりする。だから、ゴシック・ノワールなんぞを標榜する訳なのだ。ところが、時としてこのレッテルがビミョーな裏切りを働く。

これが世間一般の認識だとは思わない。「ゴシック」というと極めて文学趣味、審美主義的性格が強い世界であり、ポストパンク期のロック形式主義を解体する過程において、その脆弱な形式性をかろうじて繋ぎとめるための命綱として機能していた強固な精神主義的な要素だったと思っている。だからヘビメタのように本質的に大仰で様式性の強いサウンドがゴシックっぽさとドッキングしても単なるギャグにしかならないし、クラシック志向を強固に推し進めてゴシックホラー映画のサントラみたいな方法論を導入しても古典的浪漫主義の形式性を内包する限り宝塚気分全開な代物にしかならない。別にエレガント・ゴシック・ロリータを提唱したMANA様が率いたMaliceMizerがそれだったと名指しするつもりはないが・・・。

要はゴシックはポストパンク期に「夜想」で紹介される衒学趣味的な世界、シュールレアリズム、仏蘭西高踏派、象徴主義、審美主義、暗黒舞踏、ノイズ、アヴァンギャルド等と同時に等価なものとして違和感なく入ってきたものだった。別にゴシックとして分類済みでパッケージされたものを受容していた訳ではない。有象無象のガラクタの中から共通する独特の薫りを放つ要素を必死になって探し出すプロセスの中から浮かび上がってきたものにすぎない。

荒俣宏の紹介するブックス・ビューティフルとまるで連動するかのように発行される新書館のペーパームーン・シリーズ。海外の写真専門誌「ZOOM」の日本版やら「PHOTO JAPON」の発刊。クラシックを聴く一方でノイバウテンみたいなノイズ・エクスペリメンタルな音も当たり前に聴いていたし、独逸浪漫主義に想いを馳せる一方でカンディンスキーを、ポートレイト写真家としてのルイス・キャロルを偏愛する一方でフォト・マニュピレーションの極のようなホリー・ワーバートンを・・・。

そんな行為はバブルがはじめるあたりまでの80年代裏面史的な時代の空気の中では自然なことだったのかもしれない。そんな風に手探りで掻き集めたものが、たまたま「ゴシック」という括りの中におさまりがよかっただけなのだ。

現在の日本で流通している「ゴス」は「欧州キリスト教圏の暗黒でろでろな風土性、歴史性、文学的意味性、そして精神性やらのなにやらの束縛から軽やかなほど自由に解き放たれており、その形式性、様式性を謳歌している」と分析してみせるムキもある。その物言いはあたかも「スタイルやフォーマットこそがゴスの本質である」とさえ聞こえる。確かに「そもそもの成り立ちとは無関係に、そして自由な形で受容されてしまう」ことはポップカルチャーの宿命であり、そこに難癖つけて説教する権利なぞ誰にもない。

しかし、圧倒的な違和感を感じざるを得ないのだ。

「強固な美意識と堅牢な精神性の上に展開される自由な形式こそがゴシックの本質なのではないか」と断定する自分は、これほどまでに異なるゴス観をつきつけられると「う~ん、おらあゴスでなくてもいいや」と自ら標榜した筈のレッテルを投げ出したくなったりするのである。

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