AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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「この世に不要なあなたは死になさい」という不条理を認める気はない

長崎市長射殺、秋田連続児童殺害について死刑に関わる印象的な判決が報道された。中には少しは溜飲を下げた人もいるだろう。不満を覚えた人もいるだろう。長崎市長については知れば知るほど怒りがこみ上げてくるというのが本音である。

しかし、自分はどちらの事件についても死刑は認めない。(*1)

死刑存置は「世の中には正しい人殺しがあること」を認めるのと等価だ。もしかしたら「必要悪であり、消極的支持にとどまる」と主張する方もいるかもしれない。しかし「必要性」を認めることと「正しい人殺し」を認めることの間には本質的な差異は存在しない。「正しい人殺しがある」ということは「ある人間を排除すべきかどうかを客観的かつ論理的に判断することができる」ということである。さて、あなたは「自分が生きる価値のある存在かどうか」を他人が決めるのを認めることができるだろうか?(*2)

少なくとも自分は「この世に不要なあなたは死になさい」という不条理を認める気はない。

要は死刑存置を主張するということはこういうことだ。不条理であろうとなんであろうと、どこかの誰かさんが「死ね」と言えば、あなたはそれを受け入れざるをえない。それは「意地の悪い言い方」だという反論が聞こえてきそうだ。これはあなたが凶悪犯罪者かどうかなど関係ないことだ。意思決定のプロセスに誤謬があったのかもしれない。そんなことも関係ない。単にあなたを合法的に殺すための装置が機能するかどうかだけの問題だ。

もとより「殺人者の命も大切だ」なんて安いヒューマニズムを振りかざすつもりなぞない。殺人者の命がどうなろうとそんなことには興味ない。しかし、如何なる論理に基づくものであれ「死」をつきつけてくる不条理を甘んじて受け入れるほど自分は寛容ではないということだ。仮に追検証可能で論理的に無謬のシステムが評価したとしてもだ。自分を合法的に殺すことの出来る如何なる口実も与えるつもりはない、どこの誰にも。

正しい人殺しなどどこにも存在しない。ただそれだけのことなのだ。

(*1)死刑存置論者からの幾つものレベルで反論は考えられる。例えば、更正可能性、再犯率、遺族感情、収監するためのコスト、犯罪抑止効果・・・等々。しかし、その多くは論理的形式性のみならず各論点での実効性すら死刑では担保できない。つまり死刑存続の議論においてそれらは本質にはなりえない。要はどーでもいい話ということだ。

(*2)この議論は「国家による殺生与奪を無意識に認めるかどうか」という論点を暗黙的に含んでいることに注意が必要である。
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2008/03/22(土) 13:22:56) | きまぐれな日々
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