AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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「誰からも自由である私という主体」を受け入れること
みっともない身体をひきづって生きていると発作的、定期的に「セルフイメージとリアルな身体感覚」っつーお題目が頭をもたげてくる。「モードの帝国」山田登世子 なんかを本棚から引っ張り出して読み直したりしてみる訳だ。

「ちぐはぐな身体」鷲田清一(*1)、「スピリット・ダンシングーリンゼイ・ケンプの世界ー」橋本ユキ、「第三の意味」ロラン・バルト、「モードの体系」ロラン・バルト、「ヌードの反美学」リンダ・ニード、「異装のセクシュアリティ」石井達朗 あたりも連想的にさらってみる。脳内キーワード検索では「エロスの涙」バタイユ、「WAVE 特集:ノヴェチェント」(*2)、「夜想:未来のイブ」なんかもひっかかってくるかもしれん。他人様にはどうでもいいお題目だろう。

「モードの帝国」発刊当時、シャネルを「皆殺しの天使」として「マスに圧倒的な信頼を置く旧体制からの解放者」とする点がどうしても納得できなかったのは、ボードレール的な古典的ヒロイズムをどこかにひきづっていたのかもしれん。
「セカンドラインを出すつもりはない。買えないのならアイデアを盗んで自分で作ればいい」というアレクサンダー・マックイーンの言説やらゴルチェの樫山との提携による市場展開、ヴィヴィアン・ウェストウッドのレッドレーベルなどでリアル市場をどこまでモードがコントロールするのか。コントロールする主体が誰なのかについて色々考えてみた今では納得できるのだが、当時は「マスに圧倒的な信頼を置く」と言い切る認識を共有する覚悟がなかったのだ。

では現在のリアルが「解放されたマスが闊歩する世界」になっているかというと、どうもそうは感じられない。上手い言い方が見当たらないのだが「私が主体になることは決してない。私が制度から軽やかに自由になるというベクトルがない」のだ。最初からそのようなものなどなかったのかもしれん。ロールモデルで視覚化される新しい制度に移行し続けるだけなのだ。きっちりこう言い変えるべきかもしれない。

リアルクローズでロールモデルのコスプレをしているということだ。

そこにあるのは「ありうべき自分」のイメージでさえなく、「いかにロールモデルに近づいたのか」という論理である。依拠する制度の安全性はメディアによって垂れ流されるイメージで保障される。もしかしたら明日には旧びるかもしれない。今日のところは圧倒的に強固な実体として絶えず補強されるのだ。しかし、それは制度性への回帰にしか見えない。誰かに無言のうちに強制される制度に喜んで身を委ねるということだ。

う~む、不自由だ。

ふと思い出すのが学生の頃のツッパリ君。制度や規範に反発して自由なのではなく、単に自分に都合のいい制度に乗り換えることで全能感、優越性をエンジョイしてるだけなんじゃないかと冷たく分析していた当時の自分は思えばヤなガキである。そのヘンのパンクでロックな気分全開の連中も同様である。制度を乗り換えていい気分になっても単にいいように利用されたり搾取されたりするという意味では「戦争を待望するフリーター」とその性根の部分は全く同じなのだ。自分に都合のいい状況が出来するという期待感だけで制度を乗り換えたがっているだけなのだ。客観的な分析なぞ、そこには存在しない。自分で情報を取捨選択できないという意味では情報を隔絶する装置が効果的に機能しているのだ。そこから培われるのは「今ある制度をがらがらポンしたら勝ち組になれる」という幻想だけだ。もしかしたら「少なくとも勝ち組はいなくなる」というさもしい期待なのかもしれない。しかし、今進行中の格差社会は搾取する側が現状に対する危機感と変革後への期待感を煽り制度を乗換えさせたことによって深刻化したのだ。搾取される側の期待しているような変化はそもそも用意されちゃいない。(*3)

話を戻そう。モードが現実の諸相から自由でありえない以上、政治力学の無意識の反映を内包してしまうのはしかたない。しかし、自らの皮膚感に最も近い世界においてさえ誰かが押し付けてくる制度を無批判に受け入れてしまうのはなんか違うんじゃなかろうか。別にモードやファッションに政治意識が必要だとか言うつもりはない。ただ、押し付けられる制度に生理レベルで違和感を感じてもいいのではないかということだ。

「誰からも自由である私という主体」を受け入れる。そんな勇気があってもいいと思っただけなのだ。


(*1)鷲田清一は素人のファッションに対して匿名的に取り扱うことで、思想で理論武装され安全な制度化された地点から分析をしておるのはリアルさを欠くのではないかという指摘もある。きっぱりズルイと。
確かに「モードの迷宮」を読んだ時にピンとこなかったのは、全体のトーンにおいて思想による理論武装が勝ちすぎていたためかもしれない。しかし「ちぐはぐな身体」では本人がコムデギャルソンに袖を通したときの実体験なども含め、所謂ガキを想定読者としたことがいい意味でリアルな方向に機能しているんじゃないかと感じたし、またリアル中年がモードと関わっていくことに対する齟齬がそこかしこに無防備に見え隠れしているところがグーだった。自由にファッションを謳歌できるガキと違ってリアル中年の場合、そもそも思想による理論武装といった装置なしでファッションにコミットしていくことは極めて困難だと思っているということだ。

(*2)この特集の記事で若桑みどりが「アートは政治である」ということを言っておったのが、ミョーにかっこよかった。

(*3)考えてみればカルトな言説を受け入れるメカニズムも「何もしなくても優越性を保障してくれる制度への乗換」に拠るものだと考えている。でもって搾取される立場であろうと「日本人であるという根拠だけで他民族を蔑視することで優越感を保障してくれる」言説を安易に受け入れてしまう心理学的メカニズムも同様だ。面白いのはこの手の言説は常に「私という主体が制度を決定する」のではなく、「主体を放棄して制度に私の在り様を規定してもらう」という点だろう。

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