AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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「銀河赤道祭」は「たそがれに還る」だった
野阿梓の「銀河赤道祭」(ハヤカワSF)を買い直して再読する。

以前読んだ時はシェイクスピアのハムレットを創作行為のレベルで再創造した傑作「凶天使」の読了直後だっただけに、アレッ?"という印象だったのだ。再読してみて、本作と同じ主人公オージュール・パラジューデラが登場するデビュー作「花狩人」(ハヤカワSF)と座標がズレておらず、ヘンにBL系ラノベを意識したような以降の作品に比べて好感度は高い。ただ、構成的にあまりに混乱した印象で完成度の点では?である。

そういえば作者が「凶天使」を光瀬龍「百億の昼と千億の夜」(ハヤカワSF)を意識して著したようなことをどこかで言っておったので、もしかしたら、本作のビミョーな出来も「たそがれに還る」」(ハヤカワSF)と位置付けると納得できるかもしれん。

だからどうした...と言われると返す言葉もないのだが。


未だにOVA「戦闘妖精雪風」を正視できない理由
未だにOVA「戦闘妖精雪風」を正視できないでいる。

SWビッグバンの翌年、自分はSFマガジンを読むようになった。初めて手にしたSFマガジンのSFコンテストで二人の作家がデビューした。野阿梓と神林長平である。そして何ヵ月後に神林長平の「妖精が舞う」と出会った。

当時はその作品は完結しており戦闘機小説というよりも独自の味わいを持つディック的な作風だという感想を持ったのだ。しかし、「騎士の価値を問うな」を皮切りにシリーズものとしての構成をとり、ジャムという正体不明の存在が実在として姿を見せ始めた全体像は「戦闘妖精雪風」としていったん完結する。

自分の中では戦闘妖精雪風の世界は二つ存在している。
一つは異星知性体ジャムとの戦闘自体が存在しているのかも不安になる奇妙な世界を持つ「妖精が舞う」という作品。もう一つはジャムとのファーストコンタクトと人類が兵器として使用している機械知性とのコミュニケーションが多層的にテーマ化されたシリーズ作品。自分にとっては「妖精が舞う」「妖精が舞う空」は明かに別作品なのである。

「戦闘妖精雪風」が完結した時点で執筆されていたらは絶対に許せなかったであろう「グッドラック」。社会人になって望みもしない人間とのコミュニケーションをいやおうなく経験することで「関係性の再構成」、他者とのコミュニケーションの物語として素直に認めることができるようになっていた。おまけに「グッドラック」のクライマックスは絶望的な状況ではあるがハッピーエンドという自分の大好きなパターンだったりするのだ。(*1)

要は自分がSF者であることを意識した頃から付き合っている作品なのでかなりこだわりがあるシリーズだ。作者にとっては迷惑かもしれないが自分の読んだ順番、読んだ場所、記憶も含めて脳内でパラレルな作品世界が出来上がってしまっているのだ。

とはいうもの他人の視覚化の解釈にはかなり寛容っつーか結構平気だったりする。横山宏のロシアっぽい雪風でも他のイラストレーターのぜってえ飛びそうもねえぞ・・・なんつーヘンチクリンな雪風でも全然OKだったりする。

しかし、GONZO版「雪風」だけは???なのである。

ヘンに構成を捻って工夫しているようなのだが、ことごとく勘違いしているようにしか思えない。誰かさんが自分の作家性で解釈した雪風を見たかった訳じゃないのだ。シリーズ構成を全然いじらずに脚本を起こしてくれればよかったのだ。OVAで「戦闘妖精雪風」を一話完結のシリーズで、劇場版で「グッドラック」なんて構成をしてくれるだけでもよかったのだ。多田由美のような作家性がプンスカするキャラデザインなど邪魔なのだ。極端な言い方をすれば特徴のない無名の人がやったキャラ、メカデザインで構わなかったのだ。

そもそも神林長平の作品の映像化には作家性なんて必要ないと思うのだ。単に小説というOSから映像というOSにポーティングするだけでよかったのだ。技術系の手つきで機械的に映像化してほしかったのだ。だから、その感覚のズレがもどかしい。

GONZO版「雪風」は4巻まで見たのだが、5巻が怖くて見れないでいる。完結を正視できない。唯一評価できるのが雪風(メイブ)の異様ではあるが納得できるデザインという点だけである。だけどなア・・・。

(*1)「ガメラ3」,横田順弥「小惑星遊侠伝」のラストもこれだよなあ・・・。


アニメ版「キャプテンフューチャー」は本当に駄作だったのか?
殿ご乱心とゆーノリで製作されてしまったNHKアニメ「キャプテンフューチャー」といえばあの宮崎駿の傑作「未来少年コナン」の後番なだけに駄作という評価が定説であると思う。というよりもその存在すらキッパリ忘れ去られているっつーのが現実であろう。

しかし、そこまで無視されるにはあまりに惜しい。

確かに原作の設定のままでは、あまりに夢もチボーもない太陽系の姿に晒されてしまったすれっからしの70年代後半の視聴者にはキツかったであろう。元の太陽系の設定を中途半端に銀河系まで拡げてしまってシリーズ後半の設定が破綻して死を招いてしまったとか、何を勘違いしてやってしまったのか意味不明のディスカバリーもどきのコメット号と・・・、アナクロな原作をバカ正直に正面突破しようとして玉砕したような弛緩しきった脚本とか・・・、やっぱり、ジョオン・ランドールはもっとバタ臭いヤンキーギャルなキャラ設定にすべきだろうとか・・・いやいやキャラ設定は水野良太郎のイラストのままでもよかったんじゃないかとかツッコみどころは山ほどある。

しかしリアルタイムのファンは心にモザイクかけつつも熱く燃え滾って見ておったのだ。

そもそも原作がありがたがって読むような大層な作品かあ?
きっぱり知性の入り込む余地などブーバス・ウームからふんだくった火星の秘宝にパワー・オブ・テンした極小宇宙においてさえ存在しないのだ。あーゆーのはボンクラが熱く読めばいい世界であって、ぐっとくる掴みさえあればオールOK、イージーゴーイング・マイウェイ、ゴーゴー・イングウェイなのだ!

ではリアルタイムに見ていた一ファンが一体何にぐっときたのか?
オープニング、エンディング主題歌、BGM、そして挿入歌にぐっときたのだ!
「キャプテンフューチャー オリジナルサウンドトラック 完全盤」を入手した今なら断言できる。

このアルバム、Disc1はカスである。いや、違った。Disc2が優れものでオープニングの3バージョンが収録されており、あのBGM,このBGMと覚えているBGMが覚えているフォーマットで聴くことができ、おまけにラストが「ポプラ通りの家(TVサイズ)」というボンクラのツボ突きまくりの完璧、鉄壁な構成。
惜しむらくは「謎の宇宙船強奪団」でグラッグがガナっていた「おいらは淋しいスペースマン」が収録されてなかった点である。

音楽的には電子音ピロピロな70年代ディスコ風味。MECOのスターウォーズ並に思いっきし風化しとります。時の流れは無常。「はてしなき流れの果てに」「百億の昼と千億の夜」でございます。

しかし、いいんだよこれが!

アニメ版キャプテン・フューチャーに燃えてしまったという記憶をトータルリコール社でなかったことにしたい諸兄も、これ聴いて熱く燃え上がってほしい!


「宇宙英雄物語」が清算したもの
時は未来、ところは宇宙。光すら歪む果てしない宇宙の海へ。
愛機コメットを駆るその男・・・

と言えば殿ご乱心とゆーノリで製作されてしまったNHKアニメ「キャプテンフューチャー」のオープニングである。
しかし明らかにこの世界に触発されてスペオペ、ファンタジー、アニメ、RPGの一切合切をパロディにして笑い飛ばす一方で愛情を隠そうとしない愉快痛快な空想科学傑作漫画があったのだ。

伊東岳彦の「宇宙英雄物語」がそれである。出だしこそSFファンによるスペオペ風味の学園ギャグ漫画なのだが、”もうひとつの太陽系”に舞台を移してからがもー大変!「SF英雄群像」に出てくるあの人、この人、SFクリシェのあの設定、この設定がイジられまくって登場!スカイラークにゴートやら、既視感ありまくりの設定の使い方に見てきたもの、読んできたものが一緒なんだろうなとゆー親近感が感じられるのだ。(*1)
(大体、星詠号のデッドコピー(?)紅竜号が黒いアニメ版コメット号なんてのはあまりにナイスっす。)

ご本人に言わせたら全然的外れな感想かもしれない。この作者、自分の中でやってみたかったもの、影響を受けたものを総ざらえしてオリジナルな世界を構築する上で自分の中で決着をつけたかったんじゃないかと思えて仕方がない。だからこそあのラストだと思っておるのだ。

っつーことで完全オリジナルな展開の「OUTLAWSTAR」の漫画の方はどうなってるんでしょうか?一読者として怒ってます!

もしかしたらラノベしか読まない人には共感してもらえない世界かもしれない。しかし、求道的なSF者には避けては通れぬ道だと思う、真剣に!


「お祖母ちゃんと宇宙海賊」そして野田昌弘
スペオペアンソロジー「お祖母ちゃんと宇宙海賊」(早川SF文庫)で業界標準が恐ろしくくだらないことを思い知らされたと以前書いた。

しかしあのアンソロジーの中の表題作「お祖母ちゃんと宇宙海賊」だけは別格で無茶苦茶大好きなのだ。
とゆーのも孫が何人もいるおチビなお祖母ちゃんが宇宙海賊と宇宙パトロールを手玉にとって乱暴狼藉、悪逆非道の限りを尽くす(?)というチャーミングな展開があまりにラブリーでプリチーなのだ。
どのくらいラブリーかは是非読んでいただくしかない。他の作品はカス。断言する。

個人的にはこのチャーミングなDNAは野田昌弘の銀河乞食軍団シリーズ(早川SF文庫)に由緒正しく受け継がれていると思っている。それもお七とネンネが活躍する外伝の方が特に色濃く。んでもってノベライズ版「宇宙からのメッセージ」(角川文庫)も傑作だと信じておる!(映画は観んでよろしいと言われているで未見)

これも野田昌弘のスペオペ解説本「SF英雄群像」でインプリンティングされてしまった結果なのだろう。実際のスペオペと呼ばれる作品の多くはカスだったと思う。しかし、野田昌弘のフィルターを通して日本人向けに紹介されたスペオペはあまりにチャーミングだったのだ。

中坊の頃の自分にも明かに知能指数低めなスペオペは、キッチュだったりキャンプ趣味という口実でもつけない限り、とてもじゃないが手を出す気になる代物ではなかったのだ。
だから野田昌弘というフィルターがなければきっと自分はスペオペというジャンルを読むことはなかっただろう。そしてSWビッグバンのあの夏にSFファンになった人間はほぼ同様の体験をしたんじゃないだろうかと考えている。

というのも・・・。


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