AmlethMachina's Headoverheels
ゴシック・ノワールを標榜するAmlethMachinaによる音楽を中心にした備忘録。
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地球温暖化という言葉を口にされるとつい身構えてしまうのだ
最近、再生紙の配合比率偽装問題が製紙業界全体に波及するという報道があったりする。こーゆーことがあると、地球温暖化とかエコというタームだけが一人歩きしている現状に胡散臭さを感じているだけに、ぜ~ってえ環境利権なんかがあるだろうとつい穿ってしまうのだ。

とりあえずはいい機会なので、自分の地球温暖化への見解を整理する。

地球温暖化は本当か?

いきなりだけど、地球温暖化と言われる現象が論理的に検証されている事実なのかまず疑問視している。というのも北極の氷が溶けている。その他内陸部での氷床が溶けているという事実は歴然と存在している。しかし、南極の外縁が後退している一方中央部の気温は下がっているというデータが一方であったりする。でもってここ20年くらいの観測で気温が上がっているというけれど、それって本来の気候変動の範囲なのか、それとも人類の産業活動による影響なのかはやはりまだ仮説の域を出ていないと考える。

ただし、産業活動の影響とする仮定は予防措置的な観点からは合理だし、仮に地球温暖化というマクロな環境負荷はなかったとしてもローカルな環境負荷を小さくするという意思決定をするという意味で有効であると言える。

地球温暖化はCO2のせい?

よく言われる地球温暖化は温室効果ガスによるメカニズムで説明される。そしてCO2がいつも槍玉に挙げられる。しかし、温室効果ガスとしての影響のほとんどは水蒸気だったりする。そして、残りがCO2やらメタンやらだったりするのだが、産業活動によるCO2の排出量が自然界に存在するCO2の3%とか言われている。そうすると、一般的に流布しているイメージよりはCO2のみの影響は小さい。その一方で地球温暖化のメカニズムの一つとして太陽黒点の変化と気温変動に相関関係があることから太陽風の影響による雲の発生の変化(*1)がアルベドを変動させているという説もある。
つまり温室効果ガス説をとったとしてもCO2だけが問題とされるのは適切ではないし、太陽黒点の影響説をとったとしたらなおさらのことである。気温の変化と大気中のCO2量の変化も相関関係が認められるということであり因果関係を完全に説明できているわけではないことも注意が必要である。気温の上昇により大気中のCO2が増加するという説もある。

よくTVで2100年までに気温が上昇し・・・というシミュレーションを映像化されるとついCO2の排出はいけないという結論にとびつきたくなる。しかし、注意が必要なのはあれはCO2の影響によるモデルでシミュレートされたものだから、当然あのような結論が導き出されるということである。人類の産業活動による温暖化という事実があるのかも十分検証できていないのだから、数ある仮説の一つと見るのが妥当である。

ではCO2はバンバン排出しても問題ないのかと言えば、そんなことはない。なぜなら排出量は化石燃料を使用した環境負荷の指標の一つとして有効だと考えるからだ。しかしCO2のみに着目して環境負荷を議論するのは、木を見て森を見ずということである。唯一つの要因だけで判断するの危険である。

地球温暖化への対策として原子力は有効か?

以前、拙エントリでもとり上げたが、欺瞞である。
ただし、当該エントリで熱排出が地球温暖化に直結するように書いたのは認識誤り。太陽によるエネルギーの総量が大きすぎてマクロ規模での影響は無視できる。しかし温熱排水による建設地沿岸の水温上昇などのローカルな環境への影響はあるため、環境負荷という観点では無視するべきではない。なので論旨自体は変えるつもりはない。

認識誤りがあったので、反省して「もしかしたら原子力は有効なんじゃないか」という観点で色々確認してみた。そしたら、次のことが言えた。
日本国内で広報される原子力の発電コストは揚水発電(*2)のコストを水力発電のコストに計上しており、実際に原発を運用する上で必要なコストとなっていない。また、事故発生時のコストや廃棄物処理のコストも無視されている。そのため他の発電よりもコストが安いというのはウソである。
原子炉単体では確かにCO2は排出しない。しかし、発電に必要な真水やらその他のリソースを得るために化石燃料を使用するため、原子炉を運用するシステム全体では逆に火力発電よりもCO2を排出する結果になる。だから原子炉を導入することが脱炭素社会への一歩だというのはウソである。

う~む。全然いいとこ、ないじゃん。調べない方がよかったかもしれん

以上、整理してみた。

CO2の削減目標を設定するのは決して悪いことじゃない。省エネや環境に配慮することは問題ないし、代替エネルギーを模索することもちっとも悪いことじゃない。
ただ、地球温暖化もそのメカニズムも、本当のとこはまだよくわからんというのが真実だろう。問題はCO2が諸悪の根源でCO2排出量のみが一人歩きしていることなのだ。

最近もトヨタが家庭で充電できる電気自動車をエコカーとして発表したが、確かに単体ではCO2は排出しないかもしれん。しかし、その電気はどこから手に入れているのだ?結局のとこ、火力発電や原発に頼る限り、CO2はどこかで排出されるわけだ。おまけに蓄電しモーターを動かすプロセスでのエネルギー損失を考えると、電気自動車の軽量ボディやらに燃費のいいガソリンエンジンを搭載した方が実は社会全体でのCO2排出量は少ないかもしれん。

またバイオマス燃料についても同様だ

要は一つの要素のみをクローズアップすることで、本質的な議論を遠ざけているのだ。多分、環境負荷について真正面から取り組むことは輸送のためのインフラを含め社会のありようまで見直す必要があるのだろう。そういった事実から目をそらせ、「とりあえず努力してますという気分」を満たすための道具としてCO2排出量という言葉が機能しているような気がしてならない。また、地球温暖化というグローバルな問題設定が国際規模での環境利権も発生させているんじゃないだろうかとさえ思えるのだ。

だから地球温暖化という言葉を口にされるとつい身構えてしまうのだ。


(*1)霧箱の原理で大気中を通過する宇宙線が雲を発生させるのだと説明されている。
(*2)原発の夜間の余剰電力で水をくみ上げて水力発電させる施設。原発は小回りが効かないのだ。
天才数学者たちが挑んだ最大の難問
フェルマーの定理を知っておられるだろうか?

3 以上の自然数 n について、x~n + y~n = ~n となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない、というアレである。
フェルマーが残して以来、360年あまりの間、一般的な証明を求めて無数の数学者が挑戦を続けた定理である。堀晃の短編ハードSFでも異星知性とのファーストコンタクト・ネタに使われたアレである。

先日、ふとフェルマーの最終定理の証明方法ってどんなものだったのだろうと思い、アミール・D・アクゼルの「天才数学者たちが挑んだ最大の難問―フェルマーの最終定理が解けるまで」吉永良正訳(早川書房)を手にしたのだった。

いや~、実にこれが面白い。本書は証明方法の詳細にはほとんど立ち入らない。しかし、フェルマーの問題の起源であるピタゴラスのあたりからオイラー、ガウス、ガロア、クンマーの理想数を経て近代的アプローチとしての楕円関数の導入、谷山・志村予想、フライ・セール予想へと発展し、最終的にアンドリュー・ワイルズによる最終的な証明へと数学史を俯瞰する形で語られており、どのようなプロセスを経て最終的な証明に至ったのかがわかるのだ。

正直言って近代的アプローチの楕円関数のモジュラー形式やらフライ曲線と言われても漠としたイメージしかわかない。しかし、クライマックスに向けて論理的な証明手段とアプローチ、予想が次々整備されていく様は当事者でないにも関わらずワクワクしてしまうのだ。
(ちょっと悪役なヴェイユくんとセールくんなんてキャラクターも出てくるけれど・・・)

どのようにしてフェルマーの最終的証明に至ったのかを見てみると、確かにワイルズの天才も必要だったのかもしれない。しかし、その影で無数の才能ある数学者が残した業績なくしては、その栄光を得ることは不可能であったことは容易にうかがえる。このことは、あらゆる分野で言えることなのだと思う。新理論やら未知の領域で偉大な功績を残すということは単に思いつきでできるということではない。過去の他人の業績に敬意の念を払い、他人の意見に耳を傾け、本当にくだらね~と思えることを積み重ね、そして第三者の検証をもって初めて成立するものなのだ。

そういった意味で一つの偉大な業績がいかなるプロセスで得られたのかを知るいいテキストだと思う。


トンデモな裁判があったら、教科書は検定を通らないの?
アニカ様のところのコメント欄が面白すぎた(失礼)ので、一言だけ。

教科書検定問題って「日本軍による自決の強制があった」事実認定の問題ではなく、「なぜカルトな検定意見が採択されてしまったのか」ということだ。だから、政府のやるべきことは単に「カルトな検定意見が紛れ込んで採択されてしまったプロセスを国民の前に詳らかにし、再発防止策を明確にする」だけのことである。なんで政府与党はそういうごく当たり前のことをする見識がないかなあ・・・?

なので、「自決強要の事実認定」を教科書検定問題を議論する際に俎上に乗せるのは、そもそも問題外。ちなみに裁判で係争中の例があるから教科書の記述削除がまかり通るのであれば、「太陽が地球の周りを回っている!」と訴訟を起こすトンデモな方がいらっしゃったら理科の教科書から天文学の記述を全て排除するのと等価っす。

*

日本版「Dazed and Confused」最新号(「Art is Rock」特集)の表紙がかっこよくて、つい購入。エディ・スリマンの写真集がちょっと嬉しい。バウハウスのDrのケビン・ハスキンスの子供が参加しているBlack Blackのオフステージの写真が少ないながら掲載されており個人的にはポイント高いぞ!

日曜日、高輪台の古本屋に久しぶりに行ってみたら、モリニエや金子国義の画集やら山口椿の手彩色の自費出版画集、三島由紀夫関連本とか相変わらず物欲をそそられる品揃えだった。しかし、価値のわかっている方がつけている値段らしく、ちと手が出ない。く~っ!
装丁がちと面白い自費出版らしき「悪魔の花束」伊藤裕美(mille-fauile)を購入。店頭で軽~く目を通した感じだと出来はちとビミョー。だが、故寺山修司が監修していた新書館の「あなたのファンタジー」シリーズに載っていた文学趣味の乙女系作家の雰囲気がちょっとあるので、ちゃんと読もうっと。



論理的帰結を受け入れることのできない人たち
「13日の水曜日」のコメント欄で、科学系トンデモと歴史修正主義との共通点のことにチョビっと触れらていて、それに対し中途半端で無様なコメントを投稿してしまったので自分のエントリで補足。

自分では自明のことだと思っていたのだが、念のため。
自然科学トンデモ系も歴史修正主義なかった系も基本的には次のように定義する。
「客観的な事実に基づき最小限の仮定で追検証可能な論理から導出された帰結を受け入れることのできない人たち」

以上。つまり、最初から議論に値しない。しかし、やっかいな存在ではある。

時空が伸びたり縮んだりするするのが気に入らないとか、月面での運動が気に入らない、日本軍による虐殺があったのが気に入らない、従軍慰安婦の存在が気に入らない、集団自決に軍が関与していたことが気に入らない、沖縄県民集会に県民が集まったことが気に入らない。要はそういうことだ。だから、願望としての論理的帰結をうるために論理構成のつぎはぎ、蓋然性のない仮定、データの恣意的な操作を行う。

自分は自然科学も歴史学も基本的には以下の手続きで行われていると考えておる。
①客観的なデータや資料に基づいて理論を構築する。
②データの取り扱いにおいては可能な限り少ない仮定を適用する。
③適用される論理は誰が追試検を行っても同じ結果が得られる。あるいは論理を追検証しても同じ結論が得られる。
そして提示された仮説の正当性が第三者によって検証され、信頼性のある理論となる。

トンデモな人たちは、一般的に流布している理論や学説は既に多くの人によって検証済みであることをまるで理解していない。残念ながら学問の世界はカルトな誰かが言った戯言を盲目的に信じるものではない。つまんねえ検証を積み重ね、それに耐えうる理論が生き残るのだ。仮に、主流の学説をひっくり返す可能性のある信頼するに足る仮説であれば、皆間違いなく飛びつく。だから、一夜漬けで仕込んだ知識でひっくり返せるような代物ではない。いわゆる科学的思考とはそのように文明が知のデータベースを蓄積するための方法論なのだ。

当然、前提となるデータにも不正なものが紛れ込むことはある。しかし、一部の不正なデータにより理論全体が否定されることはありえない。データ全体を無理なく説明可能な理論が採択されるだけだ
このことは現行理論にとって代わる理論を提示することは、現行理論が説明しているデータを無理なく説明でき、なおかつ現行理論の説明できない問題点が説明できなければならないことを意味する。もし、現行理論が説明しているデータを単に説明できるだけであれば新理論を採択する必要は全くない。

新理論を提示する側が「なかった」論は証明不可能だ。だから現行理論側に証明義務があるというのは無意味である。なぜなら証明責任は新理論側にあり、現行理論側は過去の検証結果を提示するだけでいいのだ。そもそも、現行理論側に新たに証明させるのは無駄でしかない。そもそもトンデモ系のほとんどは現行理論の検証を行っていること、それ以前に正しい知識を有していることも稀だと考えている。

つまり、現行理論が検証済みのデータの整合性等に不都合がない限り、新理論はそもそも必要はないということだ。現実には適用限界とか、過去になかったデータが出てきて理論は修正されるが、多くの場合は現行理論を包含する形で拡張される。完全に捨て去って新理論を採択するようなことはあまりない。

ここまでは新理論を提示することがどういうことか自分の考えを述べたつもりだ。本当の問題は現行理論から導出される帰結をなぜ受け入れることができないのかだ。時空が伸び縮みする帰結が受け入れられないのは、感覚的にはわからないでもないし同情しないこともない。ニュートン力学からアインシュタインの世界に拡張される必要のある条件が日常生活には存在していないからだ。

しかし、なかった系についてはまるで理解できないのだ。

なかったという結論によって何かメリットがあるのだろうか?
そもそも、国際社会において検証済みの理論を否定することによるデメリットは思いついても、メリットは思いつかない。仮に謝罪がいやだとか戦後保障がいやだとかいう理由でなかった論を展開し維持するとしたら、その虚妄を維持するためのコストは馬鹿にならないし、リテラシーを排除するのだから有形無形のデメリットは無茶苦茶大きい。そんな無駄なことをするのなら素直に謝罪したほうがはるかに少ないコストで周辺諸国からの信頼は得られると思うぞ。

他国から似非科学や歴史修正主義に頭が汚染されている馬鹿国家認定されたくないぞ、自分は・・・。


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